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3.排除の構造

3– 1.「透明な嵐」

 『ユリ熊嵐』というアニメーション作品がある。端的にいえば、ほとんどクマと女の子しか登場しない作品である。クマ王国の国王一家や断絶のコートと呼ばれる裁判所以外にはほとんど男性も異性愛的な規範も存在せず、世界には女性と女の子と同性愛的要素を孕んだ「友だち」しかいない。そして、それが自然に(としか受け取れないかたちで)描かれているのだ。また、小惑星クマリアが爆発し地球に降り注ぎ、(因果関係は不明だが)クマが一斉決起してヒトを襲いはじめた「断絶の日」以降[19]、原則的にはクマがヒトを食べ、ヒトがクマを撃ち殺すことから、彼女らは「断絶の壁」を隔て存在している。そこは、クマとヒトが排除し合う世界であり、その特色は、舞台となる女子校でおこなわれる「排除の儀」や「透明な嵐」にあらわれているといえよう。
 「排除の儀」を説明するまえに、儀式の冒頭で述べられた言葉を引用したい。

私たちは、透明な存在であらねばなりません。
(……)
友達、はなにより大切ですよね。いま、この教室にいる友達、それが私たちです。その私たちの気持ちを否定する人って、サイテーですよね。私たちから浮いている人って、ダメですよね。私たちの色に染まらない人は、メーワクですよね。そういう空気を読めない人は…悪です。
泉乃純花さん[20]は、そのせいでクマにやられてしまいました。仕方ありませんよね。彼女は悪だったのですから。
私たちは、次に排除する悪を決めねばなりません。[1]

 「排除の儀」は、スマートフォンによる投票でクラスのなかの「悪」を決める儀式である。とはいえ、これは極めて形式的な意思確認で、「悪」の対象となる人物はあらかじめ決められているうえに儀式には参加しない。クラスには儀式を取り仕切る者がおり、この者がクマに殺されるなどすればまた別の人物にとって代わられるが、いずれにせよ絶対的な権力を持っているわけではなく、いわばその場の「空気」の代表である。また、排除の対象が決定されているが故に、ひとりでもちがう人間に投票すれば「全会一致ならず[21]」となり、「みなさん、私たちのなかにひとり裏切り者がいます[21]」などとアナウンスがなされる。そして「次の悪は、椿輝紅羽〔主人公〕に確定するはずでした。ですが、その前に私たちは裏切り者を排除しなければなりません[21]」というように、裏切り者の排除が先行されることとなるのである。「群れの空気を読まぬ者は、排除の対象になる。そういう仕組みですもんね[22]」という言葉があらわすとおり、同調しない/できない者、すなわち「透明」でない者は「悪」として排除される運命にある。
 これは、クマをめぐる問題でもある。というのも、この学校では、ヒトの姿をしたクマから身を守るために「友だち」と行動することが推奨されているために、それとなく団結した姿勢が必要な(ことだと信じられている)のだ。クマがいれば、それは「悪」であり、即刻、排除(というか射殺)の対象となる。けれども、そのクマが潜んでいるか否か判断できないような状況では、「透明」ではない者を排除することで、共に行動するクラスメイトを確保するのだ。ただし、クマとヒトが排除し合うように、クマはクマで、ヒトはヒトで排除し合っているために、同種間においてもなんらかの排除の原則がみられることも事実である。「ケモノの世界は冷酷である。力の弱いもの、周りと同じ行動をとれぬものは、あっさりと排除される[23]」。
 さらに、儀式を終え正式に「悪」が決まると、「透明な嵐」が訪れる。実際的な内容は(壮絶な)いじめと表現して差し支えないが、これは、「透明」でない者を「透明」にする行為だ。「嵐が、追いかけてきた。(……)透明な嵐は、すべてを壊してゆく。私たちがすり減って消えてしまうまで[24]」。「この世界のルールを守れないあなたは悪よ。わたしたちは、透明であらねばならない[25]」。嵐は、「悪」を「透明」にしようとする。「私は、あなたたちなんかに負けない。透明になんかされないわ![26]」とあるように、嵐に屈すれば「透明」になる。
 作品において、「透明」になるというのがいかなる状況であるのか、具体的な描写はほとんどない。だが、これは全体への従属だろう。個人として、ひとりの人間として、異なる者として存在することは許されない。あくまでも群れを成す存在でいなければならないのだ。
 たしかに、現実世界において「排除の儀」が行われ「透明な嵐」が訪れることはないのかもしれない。しかしながら、これはじゅうぶん分析に価すると考える。なぜなら、明文化されないまでも、空気を読まない/読めない者が排除されることは現実に起こりうるからだ。

こんなことが起こってはならなかったはずだと私たちが言う場合、私たちの頭のなかにあるのはこういうことなのだ。──過去においてわれわれが政治的行動や歴史的・政治的思考のなかで用いた、優れた、そしてまた偉大な伝統によって聖化された方法をもってしては、これらの出来事を理解し切ることはできない、と。[27]


 アーレントの記述は、それを示唆している。ナチスの所業は、それまでの人類史から考えればありえなかったわけであるが、しかしながらそのありえない出来事は、実際に起きてしまった。われわれがそこから学ぶべきことは、「排除の儀」など現実にはありえないと棄却することではなく、起きてはならない、理解や想像をこえた事態についても思考する態度を持つことであろう。正気を装うことは、いずれ取り返しのつかない狂気を生む。何が正しくて、何が間違っていて、何が正常で、何が異常なのか、確固たることは言えないのにもかかわらず、「現実的」な問題だけを論ずるべきだというのなら、それは欺瞞にほかならない。

3– 2.第三項問題

 『ユリ熊嵐』の描く排除の構造は、闘争や暴力について論じた『暴力のオントロギー』のなかで今村仁司が指摘した第三項問題を想起させる。

第三項は、二項対立関係(相互性)を維持したり、あるいは二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには(……)、つねに必ず、暴力的に抑圧され、排除され、あるいは殺害される。[28]

 今村によれば、人間関係はどのようなものであれ三角形的[29]であり、わたし(たち)とあなた(たち)という二項の関係を維持するために、彼(ら)である第三項は排除されるという。「排除の儀」において、投票の場にさえこさせない第三項を「悪」と「全会一致」させ、排除するという営みはまさしくこのモデルで説明できるだろう。「個体的であれ集合的であれ[30]」「つねに単数[30]」である第三項は、宿命的に抹殺される。
 女子コミュニティでは「いつ何時ハブにされるかわからない[31]」というが、それは「私が椿輝さんのあたらしい友だちになる。そうすれば、嵐は椿輝さんを避けてゆく[21]」、「私に嵐は止められない。だけど、あたらしい友だちとして椿輝さんを守ることならできる[21]」という作品中の言葉にもあらわれている(実際には、これは椿輝紅羽を貶めるための戦略にすぎなかったのだが)。嵐はとめられない、すなわち排除の構造はなくならないが、友だちとして「わたしたち」になること、第三項を脱することができれば、その存在は抹殺されないのである。

3– 3.全体主義性

 今村も指摘するところであるが、排除という行為は、排除する側の結束を強めるために生じるものである。全体主義を論ずるときに欠かせないこの視点は、以下のような言葉にもあらわされるのだ。

いつだって彼女たちは、悪という名の排除の対象を求めている。それがヒトだろうとクマだろうと関係ない。一致団結して何者かを排除するという儀式は、私たちという見えないつながりを実感させている。[32]

 排除の構造から全体主義性を考察すると、その特色が浮かび上がってくる。『ユリ熊嵐』では、クラス内部に敵をつくり続けるその運動はとどまるところをしらず、降りたくても降りられないまま次々に「悪」が排除されていく。PTAのような組織でも、先にあげた事例でみれば、「個人より全体が優先され、弱い者や『敵』とみなされた者はコミュニティからの排除や相互密告、あるいは『生け贄』の対象となる」というのは否定できまい。

動員に際して全体主義的支配が頼るものは、われわれ自身が矛盾のうちに自己を喪失することを恐れて自身に加える(……)強制なのである。(……)内的強制をもってわれわれは自分をテロルの外的強制のなかに嵌めこみ、この強制に同調させるのである。[33]

 たとえば、「透明」でなければならない、空気を読まなければならないという自身への強制がなければ全体主義はうまれない。みながみな、「透明」であることを拒否していれば、同じように考え同じように振る舞うことを志向していなければ、多様性の生存が担保されるコミュニティでは、全体主義は立ち行かないのである。
 実際の出来事からみても、「女社会」を扱う書籍をみても、「女の敵は女」と言わんばかりに女性の生きづらさが噴出している。もっとも暴力的なかたちを総合すると、女性はコミュニティ形成において格付けし合い、マウンティングし合い、立場の弱い者を都合よく使い、思うようにならなければ排除する、ということになる。だが、完全に個人プレーで競い合っているかといえば、そうではない。「お互いひたすらほめちぎるスタンス[5]」をとることでいわば「仲良し」をしながら、表面的には円満なコミュニティが出来上がる。そこには巧妙な策略が働き、「生け贄」のように排除が隠蔽されることすらある。全体主義的な集団のなかでその奇妙さを告発することは、全体主義の性質上、非常に困難であるが、まさにその特性をいかすようなかたちで存在するのが「女社会」である。

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[19]「INTRODUCTION」『ユリ熊嵐』<http://www.yurikuma.jp/story.html#jump_intro>。
[20]泉乃純花は、主人公(椿輝紅羽)の「友だち」であり、クマに食い殺された女の子である。
[1]『ユリ熊嵐』(EPISODE 3「透明な嵐」)。
[21]『ユリ熊嵐』(EPISODE 6「月の娘と森の娘」)。
[22]同上(EPISODE 2「このみが尽きても許さない」)。
[23]同上(EPISODE 7「私が忘れたあの娘」)。
[24]同上(EPISODE 1「私はスキをあきらめない」)。
[25]同上(EPISODE 12「ユリ熊嵐」)。
[26]同上(EPISODE 5「あなたをヒトリジメにしたい」)。
[27]ハナ・アーレント『全体主義の起源3 全体主義』、みすず書房、二七一頁。
[28]今村仁司『暴力のオントロギー』、勁草書房、二九頁。
[29]同上、二三二頁。
[30]同上、三八頁。
[31]『女子の国はいつも内戦』、三一頁。
[32]『ユリ熊嵐』(EPISODE 9「あの娘たちの未来」)。
[33]前掲書、『全体主義の起源3 全体主義』、二九一頁。
[5]前掲書、『女は笑顔で殴りあう マウンティング女子の実態』、一九頁。

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