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神は後悔するのか

今回は少し堅苦しく聖書の話、もとい神学的な話をしよう。

まずはノアの箱舟のストーリーの頭に出てくるこの文を見てもらいたい;

創世記 6:5-7
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

さて、この聖書の個所では神が後悔したといっている。
しかし、神の属性を理解している者ならここで疑問が生じると思う。

"なぜ、このタイミングで後悔したのか?"という疑問だ。

神の属性として:

「全能ぜんのう」 すべてができる
「全知ぜんち」  すべてを知っている
「遍在へんざい」 どこにでもいる

の三つがあげられる。

神は世界を創造したその時から「人類が神に背くこと」「その背きから救うためにイエスの贖いが必要なこと」「大洪水できれいさっぱりにしたくなること」を知っていたはずです。
だから"なぜこのタイミングで?"って思ってしまうんですよね。

ここで少し話を変えてしまいましょう。
皆さん、特に日本人の皆さんは「擬人化」や「擬人観」というものをよく知っていると思います。

擬人化とは:
人間以外のものを人物として、人間の性質・特徴を与える比喩の方法である。これらの性質・特徴には感覚、感情、願望、身振り、表現力、言語能力などがある。

擬人観とは:
人間以外の動植物、無生物、事物、自然、概念、神仏などに対し人間と同様の姿形、性質を見いだすことである。

擬人化されていないものはないんじゃないかと思えるぐらい最近では色々なものが擬人化されている。でもこれって別に最近のことではなくてだいぶ昔から人間は人間ではないもの(有機物・無機物問わず)色々なものの形や性質を理解するうえで擬人化をしてきた。

アニメや漫画などのサブカル的な意味合いだけではなく、例えば風神雷神は暴風と雷を擬人化したものといえるし、正義の盲目性を表現するのに目の覆われた正義の女神が使われる、夏目漱石の"吾輩は猫である"も一つの擬人化といる。
そして紀元前のころまでさかのぼれば、当時の人間には説明できない物事や自然現象を神格化し形(人型の)と名前(人物名の)を与えることで神として祀るだけでなく親しさや創造しやすさを持つことができたのではないかと思う。特にギリシャ神話・ヒンズー神話・日本神話などの多神教神話ではその傾向が強いのではないだろうか。日本においては古代から"森羅万象全ての物に魂が宿っている"という考え方があり、自然崇拝の概念も最古のものは山を祀るものだった。古代ローマの宗教ではさまざまな存在や概念に与えられた名詞がそのまま神格となっている例も多い(勝利=勝利の女神=ウィクトリアなど)。

これは文化的・宗教的な意味合いとして擬人化だが、ここでもう一つの側面として文学上・文法上の擬人化についても触れよう。

主に文学で多く用いられてる、たとえば"荒波が襲いかかる" "ご機嫌斜めな空模様" "風が頬を撫でるように"などの表現だ。物語や詩などを表現豊かにしたり感情に訴えたり理解しやすくするために使われる。ほかにも、文学作品の登場人物を人間ではなくほかのモノにする際に使われもする。"吾輩は猫である" の猫、"オズの魔法使い" の臆病なライオンなど様々だ。

さてここで、聖書の話に戻そう。

根本的であり一番大切な部分であることだが
神は人間ではない、ということだ。

すなわち極論を言ってしまえば、神には人間と同じ感情を持っていないと言えるかもしれない。でも大切なのは、私たち人間は神に似せて創られたということだ。

神が持っている感情と人間の感情は
"イコール"ではないが
"ニアリーイコール(≒)"ということだ。

だから個人的な意見ではあるが、神は後悔したものだと思う。
そしてこのタイミングでそれを表現した(表面化させた)といえるのだ。
そして聖書をここで、その神の感情を文面上で表現するために後悔したと書いたのではないだろうか。読んでいる私たちが神の悲しみ・嘆きに触れて、自分はそう思われたくないと思わせるために。

サムエル記上 15:29
またイスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」。

聖書の別の個所ではこう書かれているように、実際に神は完ぺきなお方であるから、何かを失敗したり後悔したり後戻りはしないといえる。
でも、神には感情があるものだし、私たち人間はその感情に気を向ける必要があるものです。


この自分の解釈があっているかどうかはわかりませんが(;^ω^)
こんな感じで勝手に疑問に思い、勝手に自分なりの落としどころを見つけたわけですがいかがでしたか?
聖書って読んでいて色々解釈ができるから危険ではあるのですが(変に解釈するからカルトとかができますし…)それでも考えさせられることも多いですね。

皆さんまた次回
ではでは(・ω・)ノシ


追記

この内容をポッドキャストにしてみました(笑)
気になった方はご自由にお聞きください。​


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