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マルセル・デュシャンについて 最終回 - 最後に、告白

今日も、前回の続きから。"連載"と称してポップに投稿してみた結果、思ったよりも多くの方に興味を持って頂いている様子。みなさま、有難うございます。

今回は、デュシャンについて、というよりも、「なぜ自分がデュシャンに関して書いてみたか」という理由をお話してみたい。

※トップ画像は、ローズ・セラヴィという女性に扮したデュシャン。このキャラクターを通して、デュシャンは多くの作品を残している。

最後に、"告白"

私は、内なる矛盾を抱えている。この矛盾は私を大いに悩ませてきた。

私は中学時代から"普通ではない"ことを常々感じてきた。それは、わかりやすく言えば、女性の見た目であるにも関わらず、心は女性ではなかったりすることだったり、興味の対象がいわゆる一般的で大衆的なもの(ジャニーズやアイドル、または恋愛...あとは何だろう笑)ではなかった。

「自分は誰なのか」ということに興味を持ち、中学時代から内向的な思考を続け、ある種「哲学」し続けた。その延長で「芸術」にたどり着いた。芸術家に共感し、また思想の表現手法として、芸術というものに居場所を見つけるに至った。

この流れから、一般的に言えば「難解なもの」「メディアには取り上げづらいもの」「日常的には語られないもの」が私は大好きであった。もっと言えば、そういうものを思考する時間こそが、「私の住む世界」であった。

ただ、この「私の住む世界」は確実に存在しているのに、社会に出ればその「世界」は存在しないことになっていた。それは、変だった。それは、おかしい。「あるのにないことになっている」のは、おかしい。だから、私は表現しなければいけない。私が表現しない限り、この「私の住む世界」は存在しないことになるのだから。こういう問題意識は、いつからか強く持つようになった。

しかし、問題はいくつもある。

まず、複雑なものは、あまりにも表現しづらい。そして、仮に表現したところで、それが複雑すぎて人の目に晒されないとなれば、必然的にまた"存在しない"ことになってしまう。

だから、私が最終的に辿り着いた結論はこうだ。【難解な内容も、誰でもわかりやすい表現手法で表現する】。もちろん、これだけではつまらないが、こういう態度も大事なのではないかと思うようになった。

この感覚は、杉浦非水が雑誌『アフィッシュ』で書いていた、この感覚に似てはいないだろうか。(『マルセル・デュシャンについて② - 彼が作品を通して挑戦したこと』より)

芸術家は悩んでいる。商業主義的なものでありつつ、芸術的なポスターを作るにはどうすればいいかと。大衆に"媚び"ながらも、芸術というものを兼ね備えられないかと。

自分の内に眠る、複雑さを孕んだ膨大な思考を、ポップにわかりやすく表現するという挑戦。これをこの「デュシャンの連載」でやってみた。これは、まだ発展途上の実験的な試みでなのである。

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