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マルセル・デュシャンについて④ - どこまでも語れる、デュシャンの面白さ

今日は、前回お伝えしたように、レディメイドの新しさ・面白さについて。

正直、今回は特に難航するなというのが、書き始める時点での感覚です笑。バラバラと言いたいことはあるのに、それをまとめるのは非常に難易度が高い!今から、頑張ってまとめてみます。

※もちろん、彼の作品はレディメイドだけにとどまりません。ですが、今回はレディメイドに特化してみます。

レディメイドは何がしたかったか 

まずは、前提から。レディメイドとは「既製品」のことであった。これは、大量生産された、どこの家庭にもあるようなありふれたもの、ということである。

これを作品とすることで、彼の2つの姿勢を見て取ることができる。【皮肉】と【挑戦的な態度】である。

当然、それぞれの既製品には使用用途がある。しかし、彼はこの使用用途を既製品から取り上げた。そして、ただの"モノ"となった既製品に、彼は名前を付け直すなどして作品(レディメイド)としたのだ。その名前とは、意味がないものであったり、語呂合わせだったり、感覚的に面白いものだったりした。(※フランス語が多く、語呂合わせの面白さを紐解くのは、私には難しい。)

だが、共通して言えるのは、そのありふれた既製品は、別の存在意義を持った新たなオブジェクトとなった、ということだ。(例えば、男性用便器は『泉』のように。)ここに、既存の網膜的芸術に対する【挑戦的な態度】、言い換えれば、概念的芸術を創造しようとする意思が伺える。(これは前回でも、お伝えした通りだが。)

さらに言えるのは、商業主義否定における【挑戦的な態度】である。既製品を芸術とすることで、この芸術は誰も買えなくなってしまったからだ。(これが、デュシャンがレディメイドを作った、最もわかりやすい理由と言えるだろう。)

それと同時に、彼の既存の芸術に対する【皮肉】も伺える。なぜかと言えば、オリジナリティを放棄したように見せかけて、見るものを馬鹿にしているように映るからだ。

従来、芸術とは「オリジナリティ」に他ならなかった。この「オリジナリティ」とは、「芸術家が手を動かして作った唯一無二の作品である」ことにおけるオリジナリティのことであった。しかしレディメイドとは、前述のとおり、どこにでもある大量生産された「既製品」のことであり、オリジナリティとは対照的である。

彼は、レディメイドを通して、この「オリジナリティ」を放棄したように見せかけて、芸術において、新たな「オリジナリティ」を創造したのだ。それが、彼の示したかった皮肉(またはユーモア)であると思っている。

考えてもみて欲しい。

誰が、ありふれた日用品をアートと呼んだだろうか?
誰が、便器を芸術と呼んだだろうか?(※実際には、物理的な便器自体が芸術、というよりは、そこに付与された概念が芸術なのだが。)

そんなことを言い出すやつがいれば、大衆はその人物を嘲笑するに違いない。しかし、彼はまた大衆を嘲笑し返しているのである。

彼の親しい友人であるマン・レイの作品に、『壊せないオブジェ』というものがある。(彼も、デュシャンと共にレディメイドで知られている人物だ。)

私は、この作品名こそが、レディメイドを最も言い表していると思っている。

既製品は大量にあり過ぎる。誰もが作れる。だから壊せないのだ。そのオブジェに付与された概念は、誰がそのオブジェを壊そうと、壊すことができない。何という、社会を嘲笑するかのような、斜に構えた態度だろうか。そんな彼らが大好きだ。

実際に、この『壊せないオブジェ』の目がただただ左右に動いているのを想像して欲しい。何だか、馬鹿にされているような気がしてくる。

壊せないオブジェ

▲壊せないオブジェ
こちらはデュシャンではなく、彼の親しい友人であるマン・レイのレディメイド作品。こちらも既製品であるメトロノームに目を貼り付けたもの。

どこまでも語れる、デュシャンの面白さ

こうやって、色々とデュシャンを語る私が言うのも変かもしれないが、デュシャンについて(またはコンセプチュアルアートについて)語るのは、非常に難しい。言語化しづらいアート形態なのである。

実は、私は数年間そんな状態だった。しかしある日、あの『自転車の車輪』を久しぶりに見たときに、自分がなぜここまで彼の芸術を偏愛するのか、言語化できた瞬間が訪れた。あの日、私が記したのはこうである。

デュシャンの車輪と椅子をくっつけたオブジェは”使えない”。ゴミである。乗ろうとしても椅子の脚が刺さって乗れないし、座ろうとしても車輪がすでにあるので座れない。使用用途の放棄、それこそが自分の思う完全性なんだな。

この「他者によって何者にもならない」態度こそ、憧れ。ここまで行けば、objectify(対象とされる)わけもない。性役割はそもそも与えられない。望まれることもない。全ての前提を覆すほどの放棄ぶり。

孤高のオブジェクトになりたいね。ああいう態度は非社会的で反抗であるのに、あのオブジェクトはそう見えない。そこがまたかっこいいんすわ。

一言で言えば、それは憧れであった。

全てを拒否する態度。それを完璧にやってのける完全性。本当にかっこいいと私は感動した。この無機質的なオブジェクトに涙が溢れるくらいの感動を覚える人間に対して、他人は「頭がおかしい」と言うだろうか。そう言われたら、私は言ってやる。「なぜ、こんなにも完全なるものに、憧れないのですか?」と。または「破壊的創造を真剣に試みる、若者の熱量が見えないのか」と。

こんな話をしていれば、話が尽きることはない。この話をツマミに酒がいくらでも進んでしまう。そういうところが彼の魅力であり、彼の作品の価値なのだ。それがわからなければ、作品を手にしたところで、その作品に価値はない。つまり、彼の作品は購入することはできても、一生"手に入れる"ことはできないのだ。

こうやって、独自に打ち出した手法により、商業主義からするりと抜け出したデュシャン。もし彼が、何も理解していない人が大金を叩いて彼の作品を購入するのを見たら、彼はふふっと笑うに違いない。そんな彼の斜に構えた態度に対して、私は生涯憧れを抱くことを確信している。

さて、今日はここまで。(段々このライター口調も、板に付いてきました笑)
次回は、彼の作品のユーモアと、それに影響を受けて作った私の作品について語っていきます。このデュシャン連載も、あと2回くらいになりそうです。


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