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マルセル・デュシャンについて③ - 破壊的創造の精神

今日も、前回の続きから。今回は大分盛り上がっちゃいます!

前回は、以下のような内容で終わっていた。

一方で、彼は「芸術×商業主義」ブレンド指向には行かず、別の方向を自ら切り開いた。「(物理的な)作品を作らずして、作品を作るにはどうすればいいのか」という問いに、一つの答えを出した。それが、コンセプチュアルアートという形だったのだ。

では、この概念指向のアート(コンセプチュアルアート)は、どのような作品として実際に表現されたのだろうか。その代表的なものの一つが、ダダイズムを知る人間の誰もが知っている、あの「レディメイド」なのである。

レディメイドとは?

レディメイドとは「既製品(ready-made)」のこと。デュシャンは、このような既製品をそこらへんで購入し、それを作品としたのだった。

すでにお分かりかもしれないが、これは芸術界でも前代未聞であった。通常は、作家が手を動かし、造形したり画を描いたりすることで、作品に作家のオリジナリティが付与される。しかし、このレディメイドではオリジナリティが放棄されており、"誰でも簡単に作れてしまう"のである。(もはや作る必要もなく、購入するだけだ!)

以下、彼のレディメイド作品である。

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▲泉
男性用便器に「R.MUTT」という名前が書いてある。この"マットさん"としてデュシャンが展示会に出品したが、不道徳と判断され、展示されなかった。代表的なデュシャン作品。

折れた腕の前に

▲折れた腕の前に
雪かきシャベルに「In advance of the broken arm(折れた腕の前に)」と書いてある。デュシャンの祖国フランスではあまり見られないものだったらしく、アメリカに移ったデュシャンの目には珍しく映ったのだろうか。

自転車の車輪

▲自転車の車輪
ご覧のとおり、自転車の車輪と椅子をくっつけたオブジェである。

ボトルラック

▲ボトルラック
どこの家庭にもある、ボトルラック。ビンなどをかけて、乾燥させるのに使用されるようだ。

爆発的なエネルギーによる、破壊的創造

おそらく、皆さんが上記の作品4点を見て感じたのは「?(意味わかんないよ)」というところだと思う。ただ、こここそが感動ポイントなのだ。

私が、デュシャンを知っていく上で感動したのは、彼の狂気的で若者的な熱量に対してであった。今でも書いていると、感動して涙が出るくらいである。

マルセル・デュシャンについて② - 彼が作品を通して挑戦したことでも述べたが、20世紀以前、芸術は「目で見て楽しむもの」であり、彼の言葉を借りれば「網膜的芸術」であった。しかし彼の登場後、芸術は「頭脳や精神を通して考えるもの」であるという考え方が広まり、作品が持つ「コンセプト」の方に重要度の比重が移った。つまり彼は、長い歴史の中で築かれた芸術の定義・概念を変えたのだ。もしくは、芸術の在り方に振り幅を与えたのだ。これこそが、まさに現代の私たちが"現代芸術"と呼んでいるものに繋がっている。

ではなぜ、彼はこの新しい芸術を打ち出すに至ったのだろうか?

彼の主観で述べれば、こうだったと私は考える。

彼は、煌びやかで装飾的な芸術だけが芸術であるのは許せなかった。もしくは、そういう芸術は心底つまらなかったし、納得がいかなかった。彼は徹底的に、そういう網膜的芸術が嫌いだった。このような爆発的な負のエネルギーが、従来の網膜的芸術を破壊し、それと同時に新しい芸術を打ち立てることに繋がった。おそらく彼は、「新しい芸術を作りたい」という精神状態ではなく、むしろ「従来の芸術を否定するために、何か新しい芸術を作らなければいけなかった」のだろう。

まさに、既成概念から変えようとする、破壊的創造の衝動。血気盛んな人間の根源的情熱。この熱量がなければ、網膜的芸術の歴史を覆すことはできなかったはずだ。

少し話は逸れるが、このような精神が、50年代〜70年代に起こった日本の前衛芸術運動にも影響を与えたと、私は考えている。

またさらなる余談だが、これは今話題になりつつある「ルッキズム(見た目至上主義)批判」と本質的な考え方は同じである。現在、大学のミスコンは廃止されつつある。「美男/美女だからという理由だけで、評価されるのはおかしい」という考え方であり、顔の美醜に関わらず、人としての魅力を大切にしていこうという考え方である。デュシャンと同じ、本質指向というところだろうか。

今回はここまで!デュシャンについて語るのは、本当に難しい!

次回は、レディメイドの新しさ・面白さについて、より深く語っていきます。(次回からは、かなり主観に偏り始めますので、ご注意・ご期待ください笑。)


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