失われた故郷を求めて──栞葉るり「使用人ボイス」における存在しない記憶とノスタルジー
はじめに
突如リスナーの脳内に溢れ出した
存在しない記憶──
まだ首も座っていない時期に、それでも確かな笑顔を見留めたあの喜び…… 嫌がる本人をよそに、小さな “あんよ” に靴下を履かせたときのあの温もり…… ランドセルをほっぽらかして、やきっぺを頬張っていたあの表情…… 制服のうえから上着を着ようとするのを必死に止め、よく注意して言い聞かせたあの夕暮れ…… 寂しがるそぶりを出さないように、最後まで笑顔を崩そうとしなかった、あの春……
一体いつから──
私が “ばあや” だと錯覚していた?
栞葉るり「使用人ボイス」は、われわれリスナーに「存在しない記憶」へのノスタルジーを喚起する。
興味深いのは、おそらくこの「ノスタルジー」を、ボイスを聞いた多くのリスナーたちが共有しているであろうということだ。
私が “ばあや” で、 “ばあや” が私で……そんな「錯覚」を──それこそ集団幻覚のように──多くのリスナーが同じように抱いたはずだ。
どうして人は、存在しない記憶にノスタルジーを感じるのだろう? まったく別の生を営んできたはずの “ばあや” に、どうして感情移入できるのだろう? どうして関わったことがないはずの大人の女性を、実の孫娘のように可愛がれるのだろう?
どうしてこんなにも “るり” に尽くしたくなってしまうのだろう──?
本稿は、こうした錯覚が喚起する「ノスタルジー」を鍵語として、先人たちの思索を参照しつつ、栞葉るり「使用人ボイス」に感じるノスタルジーの “正体” とその ”治癒” 方法を考察する。
そのため本稿は、①まずは、「存在しない記憶」に対するノスタルジー(略して「存在しないノスタルジー」)がどのような分類に位置するのかをひとまず考え、②次に、哲学者の議論を参照しながらノスタルジーとはそもそもどういう性質のものなのかを分析し、③最後に、では「存在しないノスタルジー」をいったいどうやったら癒せるか、あるいは「存在しないノスタルジー」にはどのような意義があるのかを考える。
以上から分かるように、そもそも本稿は「感想」と呼ばれる類いの文章からは(大きく)逸れてしまうのだが、栞葉るりの放つ魅力やその声の喚起力に関して、あるいはVTuberの「ボイス」そのものの存在意義について、ささやかな提言を施したい。
本稿を読み終えたあとにはだから、栞葉るりのボイスについてはもちろんのこと、VTuberにおけるボイス全般についても、なにか少しでも想いをめぐらせてくれたなら嬉しい。
1 郷愁の定義──『ノスタルジーとは何か』を手がかりに
1.1 医学用語としての「ノスタルジー」
そもそもノスタルジーとは何だろうか。
ノスタルジーは、もとはギリシア語の nostos(帰郷)と algia(苦痛)を組み合わせた造語であり、17世紀末にスイスの医師ヨハネス・ホーファー(Johannes Hofer, 1669-1752)によってつくられた医学用語だった。[1]
これには、そのホーファー医師が生きていた当時のスイスに、故郷から離れた戦地へと赴いたことで、失望や憂鬱、情緒不安定な状態に陥る兵士たちがたくさん現れたという事情がある。
こうした兵士たちの状態をひとくくりに表現する用語として「ノスタルジー」という言葉が発明された、というわけである。
1.2 「ノスタルジー」の整理①(時間/空間)
とはいえ、今日におけるノスタルジーは、そのような医学的な意味に限定されているわけではない。
たとえば「昭和ノスタルジー」や「平成ノスタルジー」というように、特定の時代を対象にすることもあるし、「田舎へのノスタルジー」や「商店街ノスタルジー」というように、ざっくりした場所を対象にすることもある。
今日における「ノスタルジー」は、そのように時間や空間に対して、ひろく懐かしみや恋しさを抱くことを言い表しているとまとめられよう。
1.3 「ノスタルジー」の整理②(自発/操作)
こうした現代における「ノスタルジー」の内実がきれいに整理された本として『ノスタルジーとは何か』(宮城学院女子大学人文社会科学研究所編)がある。
そこではたとえば、ノスタルジーの「契機」を基準にして、ノスタルジーが「自発的ノスタルジー」と「操作的ノスタルジー」の二つに大別されている。
「自発的ノスタルジー」とは、故郷に帰って偶然懐かしさを覚えるような事例であり、対して「操作的ノスタルジー」とは、CMなどで特定の世代が懐かしさを覚えるような映像やBGMを流して消費拡大につなげるような事例を指す。[2]
つまり、ノスタルジーのトリガーとなるものが偶然ならば「自発的ノスタルジー」に、ノスタルジーのトリガーが故意によるものならば「操作的ノスタルジー」に分類されるというわけである。
1.4 存在しないノスタルジー≒「仮想経験ノスタルジア」?
では、栞葉のボイスに感じたような「存在しない記憶」に対するノスタルジー(略して「存在しないノスタルジー」)は、いったいどのような分類になるのだろうか?
そう思って『ノスタルジーとは何か』のページをめくってゆくと、「仮想経験ノスタルジア」なるものが目に留まる。
「仮想経験ノスタルジア」は、マーケティング研究において区分されたノスタルジーの一種だ。
一見すると、マーケティングとノスタルジーという取り合わせに違和感がある人もいるかもしれないが、けれどたとえば、ある商品の広告にノスタルジーを喚起するような画像や音楽を用いることによって、消費者にその商品を買わせるというのはよくある話である。
(たとえばアルファベットチョコで有名な名糖産業「meitoぷくぷくたい」のCMなど)
1.5 ノスタルジーの4区分
こうしたマーケティングにおけるノスタルジーは、とある研究群において、下図のように4つに分類される。[4]
噛み砕いて説明すれば、①「文化的ノスタルジア」とは、たとえばオリンピックやワールドカップなど、集団で体験された出来事に対するノスタルジー、②「個人的ノスタルジア」とは各個人が経験したことによる(言ってみれば普通の)ノスタルジー、③「対人的ノスタルジア」とは家族や友人の記憶がもとになったノスタルジー、④そして、皆が直接経験したわけではないのにもかかわらず、なぜか集団で共有されているノスタルジーこそ、「仮想経験ノスタルジア」である。
この「仮想経験ノスタルジア」については、元の英語論文を参照してもいまいち判然としないし、実際、研究者のあいだでもコンセンサスが得られていないという。[5]
ただもちろん、「仮想経験ノスタルジア」の内実がマーケティングにおいて非常に重要であろうことは想像に難くない。なぜなら「仮想経験ノスタルジア」がどういうふうに導入できるか分かれば、より多くの消費者のノスタルジーを刺激し、より多くの商品を買わせることができる(儲かる)からだ。
とはいえ、結局マーケティング分野においては「仮想経験ノスタルジア」の内実はよく分かっていないということだから、「存在しないノスタルジー」について考えたいわれわれには、もう少し別の手がかりが必要になる。
そこで今度は、ノスタルジーに関するより普遍的な議論、哲学の議論を参照してみたい。
2 郷愁のジレンマ──カッサン『ノスタルジー』を手がかりに
2.1 ノスタルジーのジレンマ?
たとえばフランスの哲学者バルバラ・カッサン(Barbara Cassin, 1947-)は、ノスタルジーについてこんな興味深いことを言っている。
ここではノスタルジーのジレンマとでも言うべきものが語られている。
カッサンが言っていることは少しややこしいのだが、ここで言う「我が家のような場所にいるという気持ち」というのがノスタルジーだと思ってもらえればよい。
つまり、「故郷」を想って、じんわりノスタルジーを感じる=「我が家のような場所にいるという気持ち」になるのは、実際に「我が家」=「故郷」にいるときではなく、むしろ「我が家」=「故郷」にいないときだというのだ。
すなわち、(当たり前のことかもしれないが)ノスタルジーを感じるのは、「故郷」から時間的にも空間的にも離れているときにこそ、なのである。
それに、なんなら「故郷」にいるときよりも、「故郷」から離れているときのほうがずっと「故郷」を美しく思ったり、そこで過ごした時間をより恋しく思ったりする。要するに、思い出補正がかかるのである。
だからたとえば、本当に故郷に帰れ(てしまっ)たとき、むしろ故郷に失望するということが起こり得る。
ずっと帰りたいと思っていた故郷を、思い出補正で、色眼鏡で見過ぎたせいで、実際の陳腐さにがっかりしてしまうのである(つまり、よく言われるところの「札幌の時計台」のようなもn……おっと誰か来たようだ)。
2.2 オデュッセウスと故郷
こうした思い出補正の魔の手にかかった最古の人物(?)として、神話の英雄オデュッセウスがいる。
オデュッセウスは、巨人族であるキュクロプスとの闘いや魔女キルケーとの出会い、魔力的な歌声をもったセイレーンとの応酬などでも有名だが、これらは全部、故郷イタケーに戻るまでの過程を描いた英雄譚で、オデュッセウスは約10年間、故郷に戻れず旅をしていた。
そしてようやく故郷へとたどり着いたオデュッセウスは、しかしそこを故郷として認識することができない。
やっとのことで故郷へたどり着いたのに、認識できない。それどころか、ここでオデュッセウスは何か「不気味な感じ」に襲われることになる。
2.3 不気味なものと馴染みのもの
故郷にいながらむしろ不安を感じる──オデュッセウスが行き合ったこの矛盾した事態は、しかしながらむしろ故郷につきものなのだと、(前述の哲学者)カッサンはいう。
カッサンはそこで、フロイト用語を引用しながらこう説く。
ドイツ語の „unheimlich“(=不気味)には „heim“(=我が家)が(文字通り)潜んでいる。あるいはこう言ってよければ、„unheimlich“ は „heim“ との差分で成り立っている。つまり、「不気味さ」というのは、「我が家」のような馴染みのある場所にこそ抱く違和感を示しているのだ。
だからカッサンが参照したフロイトは端的にこうまとめている。
不気味なものは、未知のものに感じるのではない。むしろ馴染みのあるもの(のなかにある違和感)にこそ、不気味さを感じるのである。
だがしかし、そうだとすれば、ノスタルジーの痛みは馴染みある「故郷」に帰っても癒えない、ということになるのではないか?
というのは、馴染みある「故郷」は、必ず昔と比べて変化しており、馴染みがあるはずなのにどこか違う、「不気味さ」を感じさせるような場所になるからだ。
そうだとして、ではこのノスタルジーの癒えない痛みを、われわれはいったいどうすればよいのだろうか?
3 郷愁の「治癒」──ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』を手がかりに
3.1 時間の不可逆性
フランスの哲学者ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ(Vladimir Jankélévitch, 1903-1985)は、ノスタルジーの痛みが、ある意味では回復不可能だということを認めている。
ジャンケレヴィッチによれば、ノスタルジーは二つの相反する感情から生じるという。①一つは、過去をあったことを再生できないことの哀惜(惜しむ気持ち)であり、②二つ目は、過去をなかったことにできない悔恨(後悔する気持ち)である。
要するに、楽しかったり嬉しかったりした過去を取り戻したいという気持ちと、悲しかったり辛かったりした過去を消したい気持ちが相まって、過去に対するノスタルジーとなるのだという。
しかしながら、結局のところ、そのどちらの気持ちも癒えることは叶わない。なぜなら、時間は根本的に不可逆だからだ(この時間の不可逆性がジャンケレヴィッチの哲学の根本にある)。
つまり、──トートロジーのようではあるが──時間は根本的に不可逆だからこそ、人間は過去にあった出来事をもう一度経験することはできないのだし、過去にあったことをなかったことにもできないというのである。
したがって、単に過去に還ろうと試みるやり方では、ノスタルジーの傷はけっして癒えないのだとジャンケレヴィッチは言う。
ではいったい、どうすればノスタルジーの傷は癒えるのだろうか。
3.2 不可逆の究極形?
ただここで、ひとつ奇妙な一致が、それも大切な一致が、ある一点において起こっていることに気づく。
というのは、ジャンケレヴィッチが過去にはけっして還れないと言っていたのと同様に、存在しないノスタルジーが想起させる「過去」にもまた、けっして還れないという点である──なぜなら「存在しない記憶」における「過去」などそもそも存在しないのだから──。
つまり、言ってみれば存在しないノスタルジーが郷愁の対象とする「存在しない記憶」は、還れない度合いがもっとも高い、なんなら現実における「過去」にも増して還れないという点において、ジャンケレヴィッチのいう不可逆な「過去」の究極系ともいえるのだ。
この点、つまり、ノスタルジーの対象となる「故郷」に絶対に還れないという点をジャンケレヴィッチも引き受けて議論している点に、われわれは一縷の望みを託すことができる。
なぜなら、けっして還れない過去に対するノスタルジーの傷を癒す方法があるとすれば、それは存在しないノスタルジーにも適応可能であるはずだからだ。
3.3 存在しないノスタルジーの治癒法
では、不可逆な時間観のなかで、ジャンケレヴィッチはノスタルジーにどのような対処療法を唱えたのだろうか?
ジャンケレヴィッチに従えば、まずは「還る」ことがそもそも有り得ないということを認めるところから始めたほうがいい、ということになる。
繰り返し述べているように、たとえ物理的に故郷に帰っても、時間は巻き戻らないのだから、ノスタルジーの対象となる、自分の思い出のなかにある「故郷」に本当に「還った」ことにはならない。
だからこの意味では、たとえ(物理的に実在する)故郷への「帰り」道を辿っているのだとしても、故郷に戻って、それが思い出のなかの「故郷」と異なっているために幻滅したあと、取り戻せない過去のなかにある「故郷」を追い続ける人生の「行き」の道にほかならない。人間の人生に「帰り」道などないのである。
このことに気づくと、人間はそれまでの「閉ざされた郷愁(ノスタルジー)」(取り戻せない過去を無意味に取り戻そうとする人生)から解放され、「開かれた郷愁(ノスタルジー)」(時間の不可逆性を引受けて未来に可能性を見る人生)を抱くようになる。こうして人間は、不可逆な時間を辿って、つねに未来に開かれたノスタルジー追い求めることになる。
ただし、言うまでもなく、そのノスタルジーが行き着く先は「死」という、絶対的な絶望ではある(ジャンケレヴィッチは「死」について考えた哲学者としても有名である)。この圧倒的な “行き止まり” に対して、では、人間はいったいどうすればよいのだろうか。
3.4 2つの「慰め」
ここには2つの「慰め」がある、とジャンケレヴィッチは説く。[10]
一つ目は、時は遡ることはできないのだと認め、むしろ積極的に、時が肯定してゆくものを確認することができる、という「慰め」である。
なるほどたしかに、時間が解決するものというものもある。過去は取り消せないし、取り戻せないが、そうした過去の過ちや後悔を未来の行いで償うということは十分考えられる。
とはいえ、それはやはり「慰め」にすぎない。いくら未来でふるまいを改めたからといって、過去が変わるわけではけっしてない。
そこでジャンケレヴィッチは、究極の ”居直り”とでも言うべき「慰め」を用意する。それが二つ目の「慰め」、すなわち、過去を取り消せないということ自体が、人間が存在した証だ、という「慰め」だ。
要するに、何も無いよりは、有るほうがいいだろう、とジャンケレヴィッチは言っているのだ。どんな過ちも、後悔も、生きた証であり、無いよりかは有ったと思えるほうが、まだマシだろうというのである。
この「慰め」には素直には同意し難い。なぜなら、そんなことを言えば、殺人だって生きた証として肯定してしまえるからだ。
だから人間一般について、ジャンケレヴィッチのこうした「慰め」を肯定することは躊躇われる。しかしながら、こと「存在しない記憶」にかぎっては、こうした「慰め」はある重要な示唆をくれているように思える。
3.5 錯覚を抱きしめて
というのは、無いよりかは有るほうがいいだろう、という考え方は、「存在しない記憶」という、ある種のフィクションを最大限に肯定してくれる考え方だからだ。
「存在しない記憶」というのは、まごうとなき錯覚であり、フィクションである。それは疑いようがない。
けれど人間は、そうした錯覚やフィクションを愛したり憎んだり、それについて本気で喜んだり悲しんだりすることができる。
ボイスも同じである。それがどんなにありえないシチュエーションでも、現実ではどんなに想像しがたいセリフ回しでも、リスナーはそのボイスが描く情景や人間関係を、本当に「有った=在った」ものとして想像して、本気で引き受けることができる。
あるいは VTuber 自体もそうだと言ってもいいかもしれない。VTuberという、どんなに気持ちが高ぶっても直接触れることはできない存在、どんなに想っていても媒介を通してしか姿を見れない存在、それはある意味ではフィクションである。
けれどこうした存在を、われわれは無かったことにはできない。もし仮に「推し」が引退してしまったとしても、もしも自分がライバーから距離をとるようになってしまっても、いまここにある時間、その VTuber が、その声(voice)を通じて語りかけてくれるこの時間だけは、無かったことにはできない。
あるいはむしろ本気で、ときには現実よりも圧倒的に ”リアル” な存在として、われわれは VTuber を信じることができる。
だからときには、それだけが、「存在しない記憶」へのノスタルジーというフィクションだけが、われわれを「暗黒」から救ってくれる。ジャンケレヴィッチはこのギリギリの救済をこう言い表している。
存在しない記憶──けっして取り返しのつかない過去こそが、そしてそれに対する存在しないノスタルジーこそが、むしろわれわれを「非・存在」から救い、死のまぎわで、まばゆいほどの存在証明に変わるのだ。
おわりに
「本を読んでいるときは死なない」という言葉がある。
何を当たり前のことを? と思われるかもしれないが、これが案外意義深い。本を読めているときには、「読む」という行為にかかりっきりになっているかぎりにおいて、ページをめくっているかぎりにおいて、人は死なない。
言い換えれば、本には人を死なせないだけの耐久力がある。加えて、本の内容がおもしろければ──いや、たとえおもしろくなくとも──、今日は死ぬのやめとくか、また明日にするか、いやまた明後日、また……と、死は先送りされる。
ジャンケレヴィッチのいう「開かれたノスタルジー」とは、究極的にはこの ”先送りの旅” のことである。
ノスタルジーとはだから、どこまでも「故郷」を求め続けられるということ、生き続けられるということなのである。
存在しないノスタルジーは、いわばその究極形だ。絶対に還れない「故郷」を据えたそのノスタルジーは、だからわれわれの生をどこまでも先送りしてくれる。
そして「本」の部分は、言うまでもなく、「配信」や「ボイス」に置き換えられる。今日は「配信」があるから、来週には「ボイス」が出るから、来月は「周年記念」だから──こうして人の生は延長されてゆく。
もちろん、危うさがないかと言われれば、否とは言い切れまい。フィクションが世界の観方を変えてくれるほどにわれわれを感動させるとすれば、同じほどの威力でもって、世界の観方を変えてしまうほどにわれわれを傷つけもするからだ。
だが少なくとも、栞葉るり「使用人ボイス」は私を生かしてくれた。延命させてくれた。「私」=「ばあや」が最期まで “るり” の面倒を看るのだという覚悟が、最期まで “るり” と共に在るのだという使命が、実感を伴って “分かった”。私はこのとき、この役回りのため生まれたのだ、と。
だから私は、今日もキノコの味噌汁を作る。
失われた故郷を求めて──。
[1] 「ノスタルジー」の由来にまつわるこうした記述は多くの文献に見られるが、代表的な出典としてはたとえば以下を参照されたい。Fred Davis, Yearning for yesterday : a sociology of nostalgia, New York, Free Press, 1979(『ノスタルジアの社会学』間場寿一・細辻恵子・荻野美穂訳、世界思想社教学社、1990年). なお、外国語図書について、書名は本来イタリック体で表記することが慣例であるが、管見の限り、noteでイタリック体をすべてのデバイスにおいて正常に表示する方法が判然としないため、本稿では代わりに太字で示すこととする。
[2] 今林直樹「ノスタルジーという概念をめぐって」『ノスタルジーとは何か』宮城学院女子大学人文社会科学研究所編、翰林書房、2018年、13-14頁。
[3] 同上書、13頁。
[4] 本図は、へヴレナとホラークというアメリカの研究者らによる四つのノスタルジア区分を参考に、日本の研究者である水越が作成したものを参考に筆者が Adobe Illustrator を利用して作成したものである。元図の詳細については以下の二つの論文を参照されたい。Havlena, William J. & Susan L. Holak, “Exploring Nostalgia Imagery through the Use of Consumer Collages”, Advances in Consumer Research, vol. 23, 1996(https://www.tcrwebsite.org/volumes/7864/volumes/v23/NA-23). 水越康介「ノスタルジア消費に関する理論的研究」『商品研究』第55巻1・2号、日本商品学会編、2007年。
[5] 以下の記述を参照のこと。「これに対して、最も神秘的なカテゴリーは「擬似的ノスタルジア」であろう。もはや個人的経験に拠らない記憶にノスタルジアを感じることからして、すでに奇妙だろう。さらに、それは個人レベルではなく集団レベルで発生する。これは、消費研究においてどのように理解すれば良いのかが、研究者間で完全なコンセンサスが得られていない」(棚橋豪「ノスタルジアと消費社会──その類型と動的側面について」『奈良産業大学紀要』第24巻、2008年、22頁)。
[6] Barbara Cassin, La Nostalgie Quand donc est-on chez soi?, Autrement, Paris, 2013, p. 9(バルバラ・カッサン『ノスタルジー ──我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』馬場智一訳、花伝社、2020年、7頁). 太字は引用者による。
[7] ホメロス『オデュッセイア』下巻、松平千秋訳、岩波文庫、1994年、19頁。
[8] Barbara Cassin, La Nostalgie Quand donc est-on chez soi?, op. cit., p. 39(バルバラ・カッサン『ノスタルジー 我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』前掲書、31頁)。
[9] Sigmund Freud, Das Unheimliche(1919), in Gesammelte Werke, Bd. Ⅻ, Werke aus den Jahren 1917-1920, London, Imago Publishing, 1946, S. 231(ジークムント・フロイト「不気味な物」『笑い/不気味なもの』原章二訳、平凡社、2016年、208頁). 原文に照らして一部訳文を変更した。
[10] 以下は Vladimir Jankélévitch, L'Irréversible et la nostalgie(1974), Paris, Flammarion, « Champs essais », 2011(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』仲澤紀雄訳、国文社、1994年)に加え、とりわけ邦訳に所収の仲澤紀雄「訳者あとがき」を参照した。
[11] Vladimir Jankélévitch, L'Irréversible et la nostalgie(1974), Paris, Flammarion, « Champs essais », 2011, p. 339(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』仲澤紀雄訳、国文社、1994年、367頁)。
参考文献
Barbara Cassin, La Nostalgie Quand donc est-on chez soi?, Autrement, Paris, 2013(バルバラ・カッサン『ノスタルジー ──我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』馬場智一訳、花伝社、2020年).
Fred Davis, Yearning for yesterday : a sociology of nostalgia, New York, Free Press, 1979(『ノスタルジアの社会学』間場寿一・細辻恵子・荻野美穂訳、世界思想社教学社、1990年).
Havlena, William J. & Susan L. Holak, “Exploring Nostalgia Imagery through the Use of Consumer Collages”, Advances in Consumer Research, vol. 23, 1996(https://www.tcrwebsite.org/volumes/7864/volumes/v23/NA-23).
Sigmund Freud, Das Unheimliche(1919), in Gesammelte Werke, Bd. Ⅻ, Werke aus den Jahren 1917-1920, London, Imago Publishing, 1946(ジークムント・フロイト「不気味な物」『笑い/不気味なもの』原章二訳、平凡社、2016年).
Vladimir Jankélévitch, L'Irréversible et la nostalgie(1974), Paris, Flammarion, « Champs essais », 2011(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』仲澤紀雄訳、国文社、1994年).
今林直樹「ノスタルジーという概念をめぐって」『ノスタルジーとは何か』宮城学院女子大学人文社会科学研究所編、翰林書房、2018年。
棚橋豪「ノスタルジアと消費社会──その類型と動的側面について」『奈良産業大学紀要』第24巻、2008年。
ホメロス『オデュッセイア』下巻、松平千秋訳、岩波文庫、1994年。
水越康介「ノスタルジア消費に関する理論的研究」『商品研究』第55巻1・2号、日本商品学会編、2007年。
(※書く必要はないかもしれないけれど、amazon リンクはアフィリンクではないので、とくに気にせず、気に入ったものがあれば好きな経路で購入されたい。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?