見出し画像

去来

また去年の夏みたいな、すさまじいねむりの引力がきている。出かけようかと思ったけれど、花粉症の薬をきょうは飲んでいないことを思い出してやめる。まだ薬がないと外出もままならない。すぐぼうっとして、それから頭痛がくるのだ。相変わらずわたしの症状はひどい。処方されたのはあと4日分しかないのだけど、このぶんだと病院に行って追加分をもらう時間はなさそうなので、なんとかこのまま乗り切りたい。Twitterをながめて、ともだちの投稿する桜の写真にハートを飛ばす。つくづく、花見とは無縁。長時間外にいられない。日本でいっとう見事な桜の木をライブカメラで配信して、おなじ配信をみている人たちとオンライン花見、なんてことができるようにならないかな。

14時すぎ、無観客上演となったかながわ短編演劇アワードの、架空畳の芝居をyoutubeで見る。『天使も踏むを恐れるエチカ』。年末の王子の上演を見逃したから、みたいと思っていた。やっぱりうまく聞き取れなかった箇所もあったけど、でも架空畳の芝居なのだから、生でみたって全部は聞き取れないのだから同じかもしれない。ぺらぺらと饒舌な、ミクロとマクロの満ち引きがたのしい。カメラワークもすてきだった。ただ演劇の配信は、むしろモノローグ劇みたいな、声を張らない芝居に光明をもたらしたりはしないかな。それなら、座席の位置にかかわらず、音量ボタンでボリュームを自由に調整できるわけだし。なんて…。そのまま夕方すこしねむる。ぐっすりねむればその分だけ時間が通り過ぎて行ってくれるというのはべんりだ。なにも考えなくていいから。

ひとの純然な悪意がこわい。このところどうしても気が滅入る。どうしてそんなこと言うの? というものをたくさん目の当たりにして、でもその人だってそんなことを言わざるをえないような環境下にいたのだろうかと、想像をしすぎてじぶん勝手に疲れたりする。あるいは、じぶんだって無意識にだれかを傷つけているのだと突きつけられているような気にもなって、参る。ほんとうはどちらもそうだ。傷ついたり傷つけたりすることと折り合いをつけていくのが生きることだとわかっているけど、こんなご時世ではやっぱり疲れてしまう。他人に興味を持ちすぎだ。だれもかれも。わたしも。

わたしにとって簡単なことと、そうでないことの白線は明確で、あとはそれをとびこえたり、引き下がったりして往来をながめるほかないのだと思う。最近はそういう、観念的なことばかり考えてしまう。いい加減にやめないといけないのはわかってる。甘い。うるさい。ただ胸元の焦燥が、おさまってくれればいいのだ。なにもかも、春が過ぎさえすれば。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?