天上のアイスクリーム
このあいだ、東京にようやく雪がふったのを確認した。まえの晩は深夜に酔っぱらって帰宅をして、そのまま昼ごろまで眠りこけていたのだけれど、目覚めたら窓の外がぱっとあかるいことに気がついて、そうして雪がふっていることがわかった。みぞれのような、ちりのような、ぱらぱらとしたものだったけれど、おお。と、言いたくなるくらいには、わたしは、雪がふるのを見たかったのだ。
なんのつもりだったか、いきおいで買ったらしいアイスクリームが翌朝の冷凍庫には鎮座していた。
雪をみると思い出すものはいろいろとあるが、ここ数日に宮沢賢治のことを考えていたせいか、その日は『永訣の朝』のことが思い浮かんだ。高校生のころ国語の教科書に載っていて、それから宮沢賢治をなんとなく気になって、けっこう読んだ。童話作家なのだからほんとうはもっとちいさい時分に読むべきものだったのかもしれないが。『永訣の朝』は、うつくしくかなしい詩だけれども、ここにでてくる天上のアイスクリームという表現を気に入って、ときどきバニラのアイスクリームがたべたくなったりする。よく冷えた晩の、そんな予見だったのかもしれないなと、深夜に出迎えた100円アイスのふたをぱかりと開ける。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
けれども、わたしが思う天上のアイスクリームというのは、このスーパーカップのバニラ味ではなく、地方都市の商店の隅で、このご時世ならぎりぎり売られているかいないか絶妙な、いわゆるアイスクリンというしろものだ。わたしのおじいさんやおばあさんならおそらく口にしただろう、むかしのアイスクリームは、クリームともシャーベットともいいがたい中間くらいのあいまいな食感がする。しゃりとして、うすあまく、そしてさっぱりもしている。ひとくちごとに、ほんのすこしだけバナナやレモンに似た香料のかおりが通りぬけていく、あのなんともいえない清らかな氷菓子のこと。
むかしに食べられていたお菓子というのは、どうしてこうときどき痛切な魅力を放つのだろう。クリームソーダや、かたいプリンだとか、そういうものがいまごろまたもてはやされているのには、いたって単純な、引力があるのだと思う。お砂糖やクリームのたぐいはいつだって、まじりっけなしの聖なるすがたでいてほしい。
天上のアイスクリーム。もっとも近いものは、何年か前に高知県を旅行したとき、商店街のみやげ物屋の軒先に、なんでもないふうにして売られていた。高知県では「アイスクリン」はなつかしアイテムとして、けっこうふつうに出回っているらしい。よく駄菓子屋にあった、でんとしたアイスケースの、上からめあての品をのぞきこみながら、銀色のつめたい引き戸をあけるのも好き。わたしの住む町でアイスクリンは手に入らないので、『永訣の朝』を思うときは、なぐさみのスーパーカップを代替品とする。これでもじゅうぶんおいしいが、これじゃあないんだよなあと、ぜいたくなひと口をすくうたび、薄れていきそうな味の記憶をたぐりよせるのだ。
雪の朝の光景は、熱をだして学校をやすんだ日の気持ちに似ている。ぼんやりとこころ細く、それでいてからだのどこかが火照っていて、力がわかなくなる感じ。ひとさじのアイスクリームが、やさしいあのこの熱をさましたのだろうかと、不健康なふりをした空咳がたずねてくる。
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