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空洞は肉体へやがて

薄いコート一枚ではさすがに寒かった失敗したなという晩、ひさしぶりに胃のなかのものをぜんぶぜんぶ吐き出して、ああくそ。と思う。コンビニでコピーをしたら、前の人がわすれていった300円が機体にのこされたままだったことがきょう起こった唯一のいいこと。しょうもないこと。300円をわすれていったどこかのだれかは、ああくそ。と思っているだろうか。それともそんなことには気がつかずに過ごしているだろうか。等価交換でだれかが不幸をこうむることには臆病なので、できれば後者であってほしいと思う。ていねいな生活なんてクソくらえで、実際は適当に毎日をやり過ごしてばかりだ。食事と労働、そして睡眠。きのうは残りもののキムチ鍋に冷えたごはんと納豆をいっしょくたに突っ込んでかきまぜたものを摂取しました。小説やアニメの登場人物のように、一定の性格を付与されていないから、食事に興味のある日もあれば、まったくない日もある。リアリティとはそういうことだとも思う。

生命維持のために与えられた人生のサイクルの工程のおおさにいらだつ。マグロみたいに、ぐるぐると泳ぎまわるだけでよいのならせめてもっと、楽になれただろうか。いちいち時間をいつくしむとか、その日を大切に過ごすだとか、子どもにむけた説教のように、口にはするけれど、やってられっかと、ほんとうのところは思っている。みんなもそうでしょう。休日が待ち遠しくて、そのほかは空白がただ広がっているだけ。気取ってないつもりでも、見透かされているのがわかっているからなおのこと、こころは苦しいばかりです。じぶんでじぶんを否定したり肯定したり、体内温度はくるってばかり。自意識とのたたかいは世界一ちいさい戦争。

創作の意味や意義を、かんがえる。日記やエッセイや私小説にできることとはなんだろう。かたちよく手触りのよいものは、慣れてながれるように成形した、やすくてまあまあのパンのように、ひろくあさく知れわたっていく。ただそれは氷のうえをすべらせるごとくして、どこにもぶつかることなく、つるつるとどこかへいってしまってもだれにも気に留められずに朽ちてゆくのだと思う。そうしたものは、そうですね、ごみと呼ぶほかないのだとも。ひとに対しては、好きなものを好きなだけ生み出したらよいよと言うし心の底から思っているけれど、ことじぶんにおいては、神経質にならざるをえなくて、さいきんはそのくるしみというものが、ようやく胸のうちにうまれてきたようでした。ここがスタート地点のような気さえ。ざらついて、見た目びみょうでも、なんだか噛みごたえのあるような、そういうものでないと、じぶんが納得できないのかもしれないなと、じぶんの所業によって気付かされる。セルフサービス。きれいなものはすきだから、ほんとうに無骨でストイックなものをつくれるには覚悟がまったく足りないのだけれど、でもせめて記号的でない、ああこういうタイプねと、規程されることをどこまでも嫌いつづけたい。なんのために、なにができる、まだまだ唸りながらきっと考えつづけてゆくのだろうけれど、書き残すという行為によって、じぶんの正体をあきらかにしてゆくという極めて私的な目的の、もうすこし先を暴いてみたいような気になった。マグロにはならないからこそ、ひとはどこまでじぶんの領域を拡張できるのだろうという、あたらしい命題をクエスチョンしてみる。

と、いうところまで考えてみれば、ぬれた獣のように毛羽立ったこころはやがて、ねむりの前のすこしの時間によってなだらかな夜にとける準備がととのう。この時間をうしなってしまったらさいご、というものが、ベッドとまくらの隙間にひそんでいる。このちくちくと殺気だった文字の羅列は、わかりやすくお行儀のよいものばかりが人の目について、評価をえていくという構造への、ちょっとした反抗心がうんだ、深夜の声明文として、ここに打ち立てておこうとおもいます。R.I.P.

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