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その人の何が他者を傷つけるのか

人を傷つける行為についての考察

人を傷つけるというのはどういうことなんだろうか。人を傷つけるというのはさまざまある。物理的身体的な攻撃による傷つけ、心理的精神的な攻撃による傷つけなどが真っ先に思い浮かぶ。ここで考えてみるのは、どのような行為が他者を傷つける行為で、どのような行為だと傷つける行為ではないと言えるのかということを考えるのがひとつ。もうひとつは、他者を傷つける行為に及ぶ人の何がそうさせているのかということを、今の自分のわかっている範囲で考えてみたいと思う。

人を傷つける行為とは(事例より)

事例1
「ある人が公共の場で喫煙をしていた。そこでは灰皿は置かれておらず、喫煙が禁止されているエリアであると思われる。そのような場で喫煙をしている人に対して、その場を歩いている人が少し睨んだ。すると喫煙者に気づかれたのか、すぐさま携帯灰皿で吸っていた煙草を消した。その時、喫煙者に対して睨みを効かせた人は、何かしらの罪悪感のような申し訳なさみたいなものを感じた」

事例2
「SNSで、ある投稿に対して根拠のない誹謗中傷の内容を書き込んだ。それが瞬く間に拡散され、元のツイートが削除されてからもすでに拡散されてしまっており、すべてのツイートを削除することは不可能であった」

事例1について、まず考えてみると、この「睨む」という行為だけを切り取ってみると、他者を傷つける行為だと見えなくもない。しかし、前後の文脈を見たとき、公共の場で喫煙に及んでいる人に対して睨みをきかせるというのは、むしろ正当な行為だと言える。あくまで一般論として、公共の場で喫煙をするという行為は社会通念上、望ましい行為だとは思われないし、正しい行為だとする人も現在においては少数だろう。ましてや、携帯灰皿をもっているからといって、仮に吸い殻のポイ捨てをしないからといって喫煙そのものが正当な行為だとはいいがたい。それは、喫煙によって生じる副流煙が付近を歩いている人に対して迷惑をかけているといえるからである。公共の場は老若男女、多くの人が行きかう場であり、そのような人に対して何かしらの不利益を被らせていると言えるだろう。

それではなぜ、睨みをきかせた人の方が、罪悪感や申し訳なさみたいなものを感じたのだろうか。ひとつは、喫煙者が携帯灰皿をもっていることに気が付かなかったという点。それは、公共の場での喫煙そのものより、煙草のポイ捨てをするのではないかという点について焦点化していたのではないかと思われる。しかし、近年、多くの自治体で条例が定められ、公共のエリアでの喫煙は禁止されてる場合が増えてきた。それは携帯灰皿を携行していようがいまいがにかかわらずにである。もうひとつは、その喫煙者が睨まれたことに気づいたのかどうかにかかわらず、すぐに煙草を消したことによって、もしかしたらまだ煙草が残っていたのかもしれないという想像から、申し訳なさみたいな気持ちになったのかもしれない。

事例2では、SNSという公共の場での書き込みについてであるが、事例1と同じ公共の場であったとしても行為の性質は全く異なる。事例1では、社会的なルールやマナー、法律を逸脱した行為に対してである点で、事例2では、単なる個人の書き込みに対して誹謗中傷といった人格攻撃をしているという点で相違点として考えられる。事例1は、結論として全く人を傷つける行為とはいいがたいと思う。その行為の原因が、喫煙者にある。それは社会でのルールやマナーから逸脱した行為に対しての行為である。一方、事例2では、誹謗中傷のもととなる書き込みには何らルールやマナーから逸脱しておらず、むしろ人格攻撃に及ぶ人こそ、ルールやマナーを無視し、他者を傷つけていると言える。

人を傷つける行為の性質

他者に対しての行為で、相手を傷つける行為とそうではない行為との違いにはどういったことが考えられるのだろうか。それはひとつには、ルールやマナーを無視した行為者に対しての何かしらの言動は、人を傷つける行為とはいえないのではないか。しかしながら、その言動において言葉の使い方や表現の仕方についての配慮は必要である。むしろ、何のいわれもない他者の行為に対して、その事実に基づかない形で人格攻撃に及ぶことは、他者を傷つける行為だと言えるだろう。ある、人の意見に対して正しいか正しくないかを問うのは無理が生じる。ある事実に対して、それは事実なのか事実ではないかといった議論は、論理的整合性が保たれると考えられる。しかし、他者の意見に対して(事実を述べていたとしても)それを否定し、なおかつ人格攻撃という行為が非難されて当然のように思わる。

事例3「基本的な帰属のエラー」

「ある犯罪者の犯した行為に対して、その原因をその犯罪者の内面的な部分に求めること。たとえば、その犯罪者は『性格的な面でそういう犯罪を犯す性質があった』『子どもの頃、学校生活において同級生などにいじめのような傷つける行為を頻繁にしていた』『だからそのような犯罪に及んだのだ』」と。確かにそうとも言えるだろう。しかし、その犯罪行為の原因はそれだけなのだろうか。それはその犯罪行為者の内面的な部分しかみていないのではないか。ではその内面以外の部分というのはどういうことが考えられるのだろうか。それはその犯罪行為者の外的な部分である。それはすなわち、その人が置かれている状況や社会的環境のような部分である。さらに成育歴といった部分もその人は選択することが不可能であり、不可抗力だと言える。

それでも、私たちはそういう犯罪を犯した人に対して、報復として攻撃を行う。主要メディアでは、すぐに卒業アルバムから写真が公表され、ネットにおいては例えば住所の特定やその家族にまで、攻撃が及ぶことは多々ある。確かに犯罪を犯す行為は非難されて当然である。しかしその人の名誉を棄損するとか直接関係のない家族などに対して同じような攻撃に及ぶのは制裁・報復というより、むしろ愚かな行為だと断定されるのではないか。

進化論的視点

誰しも人を傷つける行為というのは良くないことだとわかっておきながら、なぜ私たちはそのような行為に及んでしまうのだろうか。ひとつ考えられるのは、それは進化の過程で淘汰されずに残ってきたのはむしろ、必要悪だったからではないかという説が考えられる。私たち人間は、太古の昔、多くの脅威の中で生きてきた。その脅威は、自分よりもはるかに体格が大きく、力も強い人間以外の動物からの攻撃に常にさらされてきた。それに立ち向かう術として、物理的な攻撃という術を身に付けてきたということが考えられる。しかし、まだその時点では、人が生きていく中で、自分の命を守るための必要最小限の行為であること。心理的精神的な攻撃というのはなぜ、起こるのだろうか。その太古の昔の生きていく術としての攻撃が発展し、他者に対する攻撃へと進化の過程で残ってきたのだろうか。どうもそれは論理的に飛躍しているようにも思える。

文化的視点

少なくとも日本においては、他者との協調性が重んじられる文化である。私たちは子どもの頃から、他者とはお互いに協力しあいながらといった協調性や誠実性といった規範が重んじられる文化で育ってきた。一方、欧米では、一説には日本などの東洋の文化に対して、個人主義的で個人の能力や成果が重んじらる文化であると言われている。その成果のために他者を蹴落とすといったことも想像に難くない。それでも、そのような欧米的な文化であっても他者との協調性というのが軽んじられているわけではないと思われる。

人間万物の共通として、私たちは人間以外の動物や植物を殺生し、それを食べることによって生きることができている。見方によれば、その行為こそ動植物を傷つけていると言えるかもしれない。しかしながらそれは、自然の摂理なのではないか。それは自然淘汰や、自然の摂理として生物全体としての”必要悪”なのではないか。確かに、必要最小限以上の動植物を取るという行為は善悪の議論がなされると思う。それでも、それがルールやマナー、制度や法律などに基づいてなされる行為であるならば、正しい行為といえるのかもしれない。制度や法律の基での行為には何かしらの不利益を被っている人もいれば、利益や恩恵を受けている人もいるはずで、それらをある側面から見ただけでの議論は、本来なされるべき方向での議論がなされない可能性がある。人の行為の原因を探るときには、その行為の裏側に潜む面も見なければならない。ある物事に対して、他面的な視点での考察が必要だろう。結局のところ、人の何がそうさせているのか、の”何か”はなかなか見えてこない。


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