あるカフェのはなし

あるカフェ、といっても結構な有名店なのだが、私はそのお店のとりこになってしまった。

改めて振り返ってみると、自分の好きな店を誰かに紹介するということを私は積極的にしたことがない。大きな店ならともかく、こぢんまりしたところを広めるのは好まないので、誰かを誘うこともなく一人で訪れることが多かった。

その店に初めて行ったのは数ヶ月前のこと。
予てより気になっていたカフェだったのだが、立地が悪くてなかなか行けなかった。いわゆる隠れ家カフェのようなところで、店内は薄暗く、つくりは西洋の老舗を感じさせる。
一席だけ空いていたカウンターに通していただく。そこは店長さんがコーヒーを淹れるのを正面で見ることができる特等席だった。

店長の男性Kさんはコーヒー界隈の有名人。
顔を全く知らなかったのでホームページや店の雰囲気からてっきり気難しい老齢の方かと思い込んでいたのだが、全然そんなことはない。
物腰が柔らかく、一挙手一投足の美しい穏やかな方だった。落ち着きがあり視野が広く、心配りの徹底された接客。最小限の所作で他の店員さんやお客さんたちとコミュニケーションをとっていた。

コーヒーはネルドリップで、それはそれは絶品。
今まで名店とされるカフェにはたくさん行ったが、こんなに美味しいコーヒーを飲んだのはいつ以来だろう。新宿にある「凡」という言わずと知れた有名店、ここの "ぶれんど" が素晴らしい味だったのを覚えているが(ネットで話題になりすっかり客層が変わってしまったのでもう行くことはないだろう)、その印象を軽く凌ぐくらいには感動的なブレンドコーヒーだった。

Kさんの淹れるコーヒーにはその人柄が滲み出ているように思える。普段こんな抽象的なことは絶対に書かないし、笑われそうなので信じてもらえなくても結構なのだが、本当にそれを感じた。滑らかな口当たりとじんわり広がる香り、舌にほどよく乗るコクとは対照的な後味の爽やかさ。奥床しく品のあるコーヒーというのはずいぶん珍しい。淹れた人の邪心を感じないと言えばいいのか、豆のよさを引き出そうとする強い意志を感じる。

チョコレートも評判。銅板で作ったのだろうか、素朴な小皿に乗ったチョコレート。そのチョコにはある名前がついているのだが、それにぴったりの味だった。
私は「何もしない」ができる人が好きだ。
そのチョコレートは本当に純粋で、チョコレート意外のなにものでもない。コーヒーでも思ったように、素直さ、透明さが明確に伝わる味だ。


空間、コーヒー、チョコレートはもちろん、私はすっかりKさんのファンになってしまった。音楽以外で誰かに憧れるというのも自分には珍しいことなのだが、人間として一目惚れする、私にとっての理想像が体現されたような方だった。

今日、あらためてその店に行った。
どんな時間でも店の雰囲気は変わらないから、お客さんは「その店」に行くことができる。
独特な空間を堅持しているので、お客さんはその空間をすぐに認識するし、適応しようとしない人はいない。この店ならどんなに有名になっても客層はそうそう変わらないだろうし、馴染まなかった人に2度目はないのだろう。
前回飲んだコーヒーとは別のブレンド。
チョコレートも秋らしい特別なテリーヌがあり、真心を感じる素敵な一皿だった。


来るものは拒まず、去るものは追わずを無言で穏やかに醸し出すKさん。お店を出る時には今日も丁寧に挨拶してくれる。

そろそろ誰かを誘うのもいいかもしれない。

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