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発教育勅語:発表までの経緯

前史には教学聖旨の起草(1879年)や幼学綱要の頒布(1882年)等、自由民権運動・欧化政策に反対する天皇側近らの伝統主義的・儒教主義的な徳育強化運動がある[1]

発布までには様々な教育観が対立した。学制公布(1872年)当初は文明開化に向け、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視されたが、政府自由民権運動を危険視・直接弾圧し、また自由民権思想が再起せぬよう学校教育の統制に動き、天皇は1879年の「教学聖旨」で仁義忠孝を核とした徳育の根本化の重要性を説いた[1]。もっとも、教学聖旨は、儒教と読み書き算盤を柱とするあまりにも前近代的な内容であったため顧みられることはなかった[5]

教育勅語御下賜之図(安宅安五郎画)

1890年10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、内閣総理大臣山縣有朋の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる[1]。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、文部大臣榎本武揚に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山縣は腹心の芳川顕正を推薦した。これに対して、明治天皇は難色を示したが、山縣が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた[5]。文部大臣に就任した芳川は、天皇から箴言編集の命を請けた。編集作業は初め中村正直委嘱され、法制局長官井上毅に移り、枢密顧問官元田永孚が協力する形で進行した[1]


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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