咸宜園(日本教育史:幕末)

咸宜園(かんぎえん)は、江戸時代先哲広瀬淡窓により、天領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾である。「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている[1]

咸宜園では、入学金を納入して名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、「三奪の法」により、身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、すべての塾生が平等に学ぶことができるようにされた[1]

淡窓は、儒学者・漢詩人であったが、咸宜園では四書五経のほかにも、数学天文学医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりした。

塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68か国のうち、66か国から学生が集まった。東国からやってきた女の子もあった。桂林荘のときに、この寮生活の厳しさとその楽しさを詠った「桂林荘雑詠 諸生ニ示ス」の4首のうち、主に2首目冬の情景を詠ったもの、いわゆる「休道の詩」は教科書に取り上げられたことがあり、他にも四季それぞれの様子を詠んだ詩がある。休道の詩は、3代目塾主広瀬青邨が賓師を務めた私塾立命館を創始とする立命館大学の寮歌のルーツとも言われている[2]

咸宜園は、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人におよんだ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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