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日本教育史(幕末期)

昌平坂学問所
昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖された。しかし、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。この間、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された[2]

昌平学校廃止後、湯島聖堂の構内界隈において、文部省国立博物館[3]の他、東京師範学校(のちの東京高等師範学校)と東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校[4]等が置かれた。
後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(但し、附属学校等は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制のお茶の水女子大学移行に際して「お茶の水」を校名に用いたのは、湯島聖堂(旧昌平黌)構内界隈、現在のお茶の水橋界隈に所在していたことに由来する。

このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学[5]明治大学日本大学専修大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街神田古書店街の現在の発展へとつながったが、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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