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歴史に溢れた古代都市!?朝倉歴30年の地元民が語る「朝倉の歴史」とは。

こんにちは。
朝倉でESTADIO(エスタディオ)というデザインファームを営んでいる坂田です。

今回は、福岡県朝倉市に住んで約30年の僕が地元民から聞いたことや学校や本で学んだ朝倉の歴史について書きます。

地元民の言い伝えを多く反映していますので、あくまでもその背景を加味して読んでいただけると幸いです。
(そのため、考古学などの観点からの反論や批判はご容赦いただけると助かります。)

日本書紀の始まりと歴史の正確性

日本の現存最古の正史とされる「日本書紀」
実は朝倉にはそんな日本書紀との深い関わりがあります。

日本書紀は681年に天皇の命令によって書き始められたと言われています。
つまり、このあたりの時代から日本の歴史がある程度は正確に残されるようになりました。

では、このあたりの時代には何が起きたか?という観点から、681年より少しだけ前の時代を振り返ると、
大化の改新(645年)
白村江の戦い(663年)
壬申の乱(672年)
などがあげられ、日本史ではこの出来事くらいから正確性が高いとされているようです。

これより更に時代を遡ると、あくまでも国民間での言い伝えレベルのことを日本書紀に書いただけになってしまっており、歴史としての正確性は低いようです。
様々な出来事や偉人の存在についても、諸説あるという表現が多い印象があります。(卑弥呼や聖徳太子にまつわる話など)

つまり、600年より前の時代は歴史というよりも伝説という表現に近く、600年あたりからは正確性の高い歴史の始まりのような時代と捉えることができます。

「古都」朝倉の存在

そんな日本書紀には、661年に日本の首都が朝倉宮に移った(遷都した)と書かれており、これは現在の福岡県朝倉市である可能性が高いとされています。

五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。

『日本書紀』巻第二十六 斉明天皇

ではなぜ、現在の福岡県朝倉市に日本の都がやってきたか?を説明します。

当時、アジアの大陸では唐(中国)が勢力を広げており、その範囲は朝鮮半島に及んでいました。
朝鮮半島には、新羅、高句麗、百済の三国が存在していましたが、勢力拡大を続ける唐は新羅と手を組むことに成功し、その流れで660年に百済を滅ぼしました。

このタイミングで百済の遺民は日本に救援および復興の依頼を行ったとされており、この依頼に応じた斉明天皇は唐・新羅の連合軍との戦いに備えるため、当時の都であった奈良(飛鳥)よりも距離的に百済に近い場所に都を移したほうがいいと考え、福岡県の朝倉に遷都したとされています。

この歴史を周囲に話すと、
「え?朝倉って都だった時期があったの?」と聞かれますが、おそらくその答えは「YES」です。
まぁ都というよりかは、仮の都という表現の方が正しいかもしれませんが。

この歴史はとても誇らしく感じる物ですが、実はあまりよくない歴史として残っており、朝倉が都だった時期はかなり短い期間かつネガティブな出来事が多数発生しています。
日本書紀の中での福岡県朝倉という地域はもはや「邪悪な場所」という評価です。

まず最初に、朝倉宮を建設中に多数の不幸が発生します。
朝倉の木を切って使用したことに神が怒って宮殿を壊したほか、宮中で鬼火が目撃されたり、役人らに病死者が続出したとされています。

そんな不幸が続く中なんとか朝倉宮が完成したと思いきや、次は奈良から朝倉への遷都が完了したわずか2ヶ月後に当時の天皇であった斉明天皇が亡くなってしまいます(崩御)

これらの出来事は、現代風に表現すると「朝倉の呪い」のようなイメージで残っており、斉明天皇の葬儀の際は朝倉の山から「鬼」がその様子を見下ろしていたとされていたりもします。

ちなみに、ここでの「鬼」という表記は、残存する文献で登場する最古の「鬼」であり、見方によっては朝倉は世界で初めて「鬼」が誕生した場所とすることもできます。(ネガティブな出来事ですが)

一応、この鬼が出たのは高知県の朝倉という説もありますが、前後の流れから推測するに高知県での出来事とするのは難しくないか?とは思っています。

この鬼は大化の改新(乙巳の変)で斉明天皇側についていた中大兄皇子と中臣鎌足が討ち取った蘇我入鹿の怨霊という意味が含まれているという考察もあるそうです。

そんなこんなで百済への出征を決意した斉明天皇は朝倉宮への遷都後すぐに亡くなってしまいましたが、斉明天皇の息子である中大兄皇子が母の意思を継ぎ、自らが日本軍の大将に就任して百済への出征を行います。

この戦いを「白村江の戦い」と呼び、これは日本初の外征における戦いとして教科書にも記載されるほど大きな出来事です。

戦いが始まると最初の方は善戦をしていたそうですが、その後は戦略ミスや海の満ち引きに対応できないなどの外征経験の差が段々と現れ、最終的には完膚なきまでにボッコボコにされたようです。

こうして、朝倉宮は「百済を救援し復興する」という目的が未達成に終わり役割を終えてしまいました。

朝倉って歴史的にそんなクソみたいな場所なの?

これらの歴史だけを評価すると
「朝倉ってクソみたいな場所。なんもいいことないじゃん」
となりそうですが、実はそういうわけでもありません。

朝倉が深く関わったこの一連の出来事は、後の日本の発展にとてつもなく大きな影響を与えたとされています。

まず、「白村江の戦い」に敗北を喫したことで、日本は唐に侵略されるかもしれないという危機感を得ることができました。

この外圧に危機感を感じまくっていた中大兄皇子は、国防体制を強化したり、全国的な戸籍を作成するなどして国民状況の把握と中央集権体制の確立を最優先で行いました。
これによって以後の日本国家の形となる”天皇を中心とした中央集権的国家”いわゆる律令制の発展に莫大な影響を与えたのです。

つまり、良くも悪くも「白村江の戦い」に敗北を喫したことで、以後の日本を大きく成長させる政治システムが完成したという評価をすることも出来るわけです。

また、結局「唐」が日本に侵攻してくることはありませんでした。
というのも、白村江の戦いの後、唐と新羅が仲間割れをしたことで、新羅との戦いに備えた唐が日本に「和解」のような行動をとります。

唐の立場からしてみれば、
「新羅と戦っている間は日本には攻めて来ないでほしい」
「戦いがヤバい時は日本に仲間になって欲しい」
といった意図があるのではないかとされていますが、これは「白村江の戦い」を通じて、日本が"いざとなれば外国と戦う意志がある"という戦う意思の表明ができたおかげという考察もあります。

つまりこれは、斉明天皇が百済の救援を行っていなければ、日本は唐にナメられたまま侵攻され、国ごと滅ぼされていた可能性があると捉えることもできます。
そしてこの出来事には朝倉という地が深く関わっているのです。

その後の長い歴史においても日本という国が外国に滅ぼされたことは一度もなく、現在の日本がひとつの独立した国家であることは、この時の出来事(戦う意志の表明と国防対策)による影響が大きいと評価することもできます。

元号(令和)をいまだに使っている国は世界でも日本だけとか。
それは一度も日本を奪われたことがない証でもあり、基本は国を奪われたことがあればその際に支配国から「なんで勝手に自分たちの元号を使ってるの?」って怒られることで独自の元号がなくなることが多いそうです。

結論
いまの日本は「朝倉」のおかげ

というのはさすがに言いすぎかもしれませんが、朝倉という地が現在の日本の基盤を作った660年頃の主役だったことは間違いないはずです。

ちなみに、この時代に活躍した中臣鎌足は天智天皇(中大兄皇子)から藤原の性を授かり、その後の貴族政治の時代(平安時代)に日本へ絶大な影響を与えた藤原氏の祖となりました。
有名な藤原氏には「藤原道長」や「藤原頼通」などがおり、彼らは中臣鎌足の子孫に当たります。

ちなみに、そんな藤原氏祖先の墓所は朝倉にあり、いまでもその墓所の周辺地域には「藤原」という姓の住民が住んでいたりします。

他にも、朝倉にて斉明天皇の死を悲しんだ中大兄皇子が読んだ有名な歌があります。
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秋の田の
かりほの庵(いお)の
苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は
露にぬれつつ
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これは、百人一首の一番歌として現代でも広く知られています。

朝倉は卑弥呼がいた邪馬台国だったという説もあり、行政単位でもそのことをPRしていますが、斉明天皇関連の話に比べて卑弥呼関連の話を地元の人から聞くことはありません。
むしろ「邪馬台国は朝倉じゃなかろう」ということもよく耳にします。
個人的にも少し勉強した感じでは、そもそも国家と言える規模の国として邪馬台国がどこかに存在したのかすら怪しいなとも感じており、正直これに関してはなんともいえません。

歴史的なスポット

日本最古の歴史に溢れた古都「朝倉」
ぜひ、歴史に興味がある方は遊びに来てほしいので、朝倉の歴史的なスポットを紹介します。

ここでのスポットの説明は、僕が地元の人に教えられてきた記憶だけのものもあるので、史実として残っているか微妙なことをご注意ください。

朝倉橘広庭宮跡

〒838-1304 福岡県朝倉市須川

まさに朝倉宮の朝廷とされていた場所です。
ただ、このあたりの発掘はなぜか国や行政機関から禁止を命じられており、考古学的な観点からはこの場所が朝倉宮だったという証拠は見つかっておらず、あくまでも史実による推測によるものです。
個人的に、このスポットの隣りにある朝闇神社もなかなかの雰囲気があり、歴史パワーを感じることが出来るおすすめスポットです。

木の丸殿(恵蘇八幡宮)

〒838-1306 福岡県朝倉市山田

木の丸殿は斉明天皇が亡くなられた際に、飛鳥に戻るまでの間に葬っていた場所と言われています。
古墳から出土した埴輪もほぼ同時期のものとされており、考古学的な正確性評価も高いと聞いています。

また、ほぼ同じ場所にある恵蘇八幡宮は斉明天皇と天智天皇を祭神として祀っており、地元の方もよく訪れる神社です。

2023年7月に豪雨災害の影響を受け、現在復興のための資金調達などを行っております。
現時点(2024年6月)で、どのくらい復興が進んでいるかは僕も把握しておりませんが、当初は完全な復興には2億円ほどの資金が必要と聞いていたので、ぜひ協力いただける方は力になっていただると朝倉市民みんなで喜びます。

宮野神社

斉明天皇が中臣鎌足へ百済出征の勝利を祈願して建てられた神社と言われています。
なので、ほとんどの神社の向きは南向きだけどこの神社は東(百済の方角)を向いているということを小さい頃に地元のおじちゃんたちに教わりました。

また、神社内には日本史上で最強の存在感を誇る藤原氏の祖先のお墓もあるとされています。

〒838-1302 福岡県朝倉市宮野1248

別所神社

斉明天皇が朝倉宮で体調を崩された際に、中大兄皇子が体調回復を祈願して建てた神社と言われています。

〒838-1304 福岡県朝倉市須川3197−2

桂の池跡

三島由紀夫が書いた有名な作品「綾の鼓」の舞台とされています。
めちゃめちゃ簡単に説明すると、後世に語り継がれるほどの禁断の恋の物語がここであったんだよという場所です。

〒838-1315 福岡県朝倉市入地

最後に

以上、朝倉市に住んで約30年の僕が朝倉の住民から聞いたことや学校や本で学んだ朝倉の歴史の話でした。

これまで朝倉をあまり知らなかった方は、朝倉のイメージが変わったのではないでしょうか?

歴史をストーリーで理解してないとしても、日本最古の現存正史である日本書紀に「朝倉」ってワードが登場するの凄くないですか?

僕はそんな歴史に溢れた「朝倉」をめちゃめちゃ誇りに感じてるし、「朝倉」という名前をこれからも後世に残していきたいです。

だけどそんな朝倉の現在は、度重なる豪雨災害に苦しめられていることをはじめ、人口減少、産業衰退だったりと、近い将来消滅しそうなとにかくやばい状況です。

みなさんぜひ応援していただけるとうれしいです。
そして、この朝倉のストーリーを通じてもっと多くの方に歴史を学ぶことの楽しさ、大切さを知ってほしいなと思っています。

歴史にはパワーがあります。
日本史に限らず歴史を広く深く知ることで、自分たちが生きている現代がどういう時代かわかりやすくなるし、どんな行動が社会を変えたり、どういった時に人類がパワーを発揮するかなどが見えてきます。
そしてそれは、生きるうえで大きな力になると感じています。

ぜひ、興味がある方は、朝倉のこと・歴史のことをもっと深く勉強してみてください。

どうでもいいのですが、僕の母方の実家「吉松家」は、朝倉宮で朝廷を守っていた役人だったとかそうでないとか。
ネットで調べても出てこないので言い伝えでしかないのですが、数年前に歴史専門の大学教授が吉松家の先祖を祀った墓所を探して近所を訪れてきたこともあるようで、この信憑性は割と高いのかなとも思っています。
自分のルーツがここ(朝倉)にあるかもしれないとうのはとても誇らしいです。

また、僕と「朝倉の話がしたい!」「歴史の話がしたい!」というカジュアルな相談もめっちゃウェルカムです。
あと、朝倉の歴史に関する講演とかも出来るかも?とか思っているので、ご用がある方は、ぜひご気軽に各種SNSなどから連絡ください。
ちなみに僕の自宅は、おすすめ歴史スポットの"宮野神社"から徒歩3分の距離にあります。
近くへ訪れた際はぜひ連絡ください!

坂田 拓也
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