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(いまさら)星野源と「Pop Virus」について

0. 概要

今更ながら2018年12月19日に発売された星野源のアルバム「Pop Virus」のレビューをします。2019年10月14日に新作EPの配信、さらに11月からのワールドツアーが始まる前に、私の中で整理しておきたいと思ったためです。

先に結論から。私は、アルバム「Pop Virus」は以下3点の特徴があると感じました。

① 歌詞で表現される視点と編曲の展開が共に目まぐるしい。歌詞は分析的に作詞されているため、リスナーの共感を得やすい効果があると思われる。また、メロディおよびコード進行と、歌詞には、あるパターンが多くみられるため、キャッチーな曲が多い。
② 共感を得やすくキャッチーな曲である一方、歌詞は、非概念的で非感覚的なものが多いために「絵画を観るように聴く」よりも「歌詞カードをじっくりと読んで理解する」ことに向いており、また、不特定な「君」の描写の多用や類似するフレーズによって、ありふれた描写となる効果がある。さらに、リスナーが曲を聴き、情景を想起するヒント・架け橋として、曲名やMVが機能しているとは言い難い。
③ 以上のことから、星野源は、聴き手が音楽リテラシーを有することを希望しているが、アルバム「Pop Virus」は、聴き手が「情景をイメージしながら聴く」ことが容易でない楽曲が多い。

なお、私は音楽評論で飯を食べている人間ではありませんが、上記の結論に同感した方も、反発した方も、そう結論付けるに至った分析を以下に述べていきます(長いです)。ご笑覧いただけると幸いです。

時間のない方は、「3.分析」へ飛んでいただいて構いません。

1. きっかけ

 私は、星野源のファンではないものの、2018年の大ブレイクの際は「新しい感じの音楽だな」という印象で捉えていました。そのうちに星野源への世間の反応が、不思議に感じました。(少なくとも私の観測範囲内では、)星野源の全てにのめり込むか、全否定かの2極化しており、「曲はいいよね」「文章は好き」のように、部分的に好きな“ライトファン”が非常に少ない印象を抱きました。
 私自身、星野源をどう楽しめばよいか、若干戸惑っている節があります。そこで、コアなファンとアンチの狭間にいる自分が、星野源を楽しむために、「星野源は、どんな捉え方をすれば楽しめるのか?」を検討しました。その切り口として、(おそらく)本人が活動の軸としているシンガーソングライターとしての最新アルバム「Pop Virus」を聴き込むことから始めました。

2. 「Pop Virus」の概要

新作「Pop Virus」のライナーノートと「MUSICA」(2019年1月号)を参考に、本作で新たに試みられていることをまとめます。

2.1. 編曲面

前作「Yellow Dancer」からのブラック ミュージックとJ-POPを融合を発展させた作品であり、MPC奏者としてSTUTS、シンセ・ベース奏者としてSnail's Houseが参加しています。

このことから分かるように、本作ではビートに重きを置いています。たとえば「アイデア」では"生ドラム~STUTSのMPC~生ドラム"の構成、「サピエンス」では玉田豊夢の生ドラムを打ち込みドラムのように使われています[1]。

「自分の心みたいなものをそのまま音にしたいっていう思いの必然として、近いところでなるビート、つまり打ち込みのビートを今回のアルバムで求めていった」(有泉)
「完全にそうですね」(星野)

2.2. 作詞面

前作までは風景を描くことが多かったけれども、個人的なことを取り上げるようになったとインタビューで語っています[1]。

「自分の中には陰の部分も陽の部分もどっちも言葉にできない感じってのがあって…それを音楽や歌詞っていうものにする意味があるって、最近思うんですよね。これまではそういうこともパーソナルすぎると思ってあまりやらないようにしてたんだけど」

また、「恋」でブレイクした後に本人の身に起きた「クソみたいな出来事」をそのまま歌うのではなく、「クソみたいな世の中にある愛」を描いています[1]。

「それよりも愛とか、なんかホッとしたりする瞬間とか、幸せの中のノイズとか、そういうものを描くほうが、これが自分の言いたいこと、伝えたいことなんだなっていう感じがすごくするというか」
「僕が星野源として世の中に残していきたいのはクソではなく、クソみたいな世の中にある愛なんだなっていうのは今回凄く思いました」

3. 分析

本章では、「Pop Virus」を作詞・作曲・編曲・歌唱の各点から分析し、特徴的と見なされる点を指摘します。

3.1. 作詞面

曲中で歌われる場面が、意識的に切り替えられています。映像でいえば、長回しではなく、短い映像を次々と切り替えていくスタイル(スイッチング)が根底にあると感じます。
表 1に示すように、「Family Song」では、1曲中で描写される時間帯は、朝から夕方まで網羅されています。

「Dead leaf」では、表 2のように夕方から曲が始まり、2番では(おそらく)翌朝に時間が移行しています。これは、たとえば「夜を歌った曲」とは対極にあるもので、スイッチングが頻繁である描写であると言えます。

表 1 「Family Song」で描写される時間帯

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表 2 「Dead leaf」で描写される時間帯

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スイッチングが頻繁な例は、時間帯だけではありません。

表 3では、「Continues」で描写される対象の、視線の角度(推定されるもの)を示しています。

表 3 「Continues」で描写される視線と明度

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1番目に示される歌詞では、風を走る、高く羽ばたく鳥を見ています。そのため、見上げていて、かつ、鳥が見えるような明るい(少なくとも夜ではない)時間帯であると推定されます。

サビでは、「次の何かを照らす」「足元の地平線」という語句から、暗闇で、かつ、足元を見る(視線は下方向)と推定されます。その後、冒頭の鳥を受けた「闇を飛ぶ」では、闇=周囲は暗く、飛ぶ=再び見上げるイメージを想起させます。

4番目では、輝く草木=光が零れて明るく、葉を伸ばした草木を見上げるようですし、5番目では、呑まれるような雨でぬかんだ(=雨天)なので薄暗さを想起させます。これらの描写が、1曲の中で次々に提示されます。
カメラワークに例えると、長回しではなく、①撮影する時間帯が、短期間に切り替わる、②被写体を捉える視線の向きが、短期間に切り替わる、の2通りのスイッチングを行う傾向にあるといえます。

次に、描写されている対象の具体性に着目します。
一般的に、歌われている状況・人物・風景・心情等を比喩表現によって描写するわけですが、本作の特徴として、詳細な描写を避けているように思われます。

表 4 「君」「あなた」を描写する曲と、形容の一例

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たとえば、表 4において一例を示すように、作中の「君」「あなた」「貴方」といった相手について、どういった人物かを外見描写する歌詞では、「髪」が多く、「手」や「指」、「肌」といった上半身の、かつ部分的に集中しています。その他には「微笑み」(Family Song)、「笑顔」(Hello Song)、「泣いた声」(Pair Dancer)といった表情が示唆されています。全体的な人物像(大柄・小柄、どんな声か、髪の長さ、足元はどんな格好か、どういった表情をするか)は、外見および内面の描写は、詳細にしていないといえます。これは狙ってぼやかしている可能性もあります。
また動作においても、表 5に一例を示すように「音の中」(どんな音か? どれだけの期間か?)、「闇」(どんな闇か?)、「走り出す」(どこからどこに走るのか? 人間のよう?それとも動物や昆虫のようか? 周囲の状況はどんな状況か?)といった説明を極力排除し、聴き手の自由度が高い歌詞になっているといえるでしょう。

表 5 動作を表す語句と、その状況描写の一例

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前述の「KIDS」では、同居している(?)「君」が描写されていますが、不思議と「髪」と「声」の描写しかなく、全身が浮かび上がらない。ちなみに、星野源が「君」を描写する際、「肌」において“胸”が出てくるよりも下方の描写がありません。同居人を思い出す時、不思議とステレオタイプなパーツが提示されます。これにより、どことなく実感を伴わない(バーチャル=概念的な)パートナー描写になっているような気がします。

3.2. 歌唱面

癖のない朴訥な歌い方が、継続されています。星野源が敬愛するMichel Jacksonは、「ッタッ!」「ポゥ!」といった、デフォルメされた歌い方をします。また編曲面では、音像にかなり強いこだわりや実験的姿勢を見せますが、自身の歌い方を意図的に操作したり、エフェクトをかけるようなことはされていません。

3.3. 作曲面

雑誌等のインタビューやCD評では、作曲者としての星野源に言及するものは、これまで見当たりませんでした。
本作収録の曲群で特徴的なことに、「サビに入る直前(Bメロ最後~サビの瞬間)が、似ている曲が多い」ことが挙げられます。表6では、サビ直前の和音(コード)およびそのメロディの音(“ ”で括った歌詞の音)、サビ1音目のコードをまとめています。

表 6 Pop Virus収録曲のサビ直前とサビ1音目の和音の類似性[2]

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表6から分かることは、全14曲中9曲のBメロ終わりからサビにかけて、同じような展開をしている点です(Track 2, 5, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 14)。特に、全14曲中6曲は、キーが異なるものの、コード進行(V→I)とメロディ展開(ソで終わる)が同じであることが分かりました(Track 2, 7, 10, 11, 12, 14)。「Continues」は、サビ直前の音が「ド」であるものの、コード進行が同様です。「KIDS」は、サビ直前のメロディが「ファ」で終わりますが、コードがセブンスコード(Bm7)のため、上述パターンの亜種といえるでしょう。
ちなみに、本作以外の曲もいくつかピックアップすると、「Yellow Dancer」から「SUN」「Crazy Crazy」「Friend ship」が、同パターンに当てはまります。また「ドラえもん」も同パターンに当てはまることが分かりました。一方、初期作品の「くだらないの中に」「日常」もパターンに当てはまることから、「SUN」以降の作風の変化によるものではなく、ソロ活動当初からの手癖と予想されます。
さらに、毎年「バナナマンのバナナムーンGOLD」で披露される「日村さんへの誕生日の歌」も比較すると、この10年間で4回(2012年40歳、2016年44歳、2017年45歳、2019年47歳)でこのコードパターンが見られました。さらに、42歳・46歳では、コード進行が同パターンのV→Iでも代用可能だが、表で示したものを採用しています。


※私は古くからのファンではないので、Yellow Dancer以前の作品を網羅できていません。もちろん、これに当てはまらない最近の曲(例えば「時よ」)もあります。

「恋」が発表された際には、下記のようなレビューがなされていました[3]。

「SUN」のBメロと聴き比べてみると、非常によく似た旋律。これは星野による「遊び心」というか、ちょっとした「仕掛け」なのかもしれない。

しかしながら、表6で示されたように、全14曲中11曲のBメロが、同じような終わり方をしているこことから、『ちょっとした仕掛け』というよりも「手癖」と考えたほうが妥当と思われます。
本作を聴きなれない人が、TVCMやディザー動画で聴く際、星野源の楽曲は、Bメロとサビがシームレスな曲は少なく、長音やブレイクが多いため、「サビ直前の残響音+サビ」から聴くことが多くなります。その聴き始めが類似している曲が、過半数を占めるため、「ワンパターン」「似たり寄ったり」とコメントが出るのだと思われます。
「Hello Song」のソロのコード進行であれば、工夫した記述がなされています[1]。

「間のソロはまったく違うコード進行だったり、そういうポップスのようでポップスじゃない構造を持っているっていう形で工夫して」

一方、ここで指摘したような「コード進行が似ている」ことについて、特に言及した資料はありません。

3.4. 編曲

編曲面は、星野本人や各雑誌で取り上げられることが多いため、本稿で取り立てて指摘することは少なくなります。
豊富なアイデアを実現するために、凝ったアレンジをしています[4]。

「(サウンド的にもストリングス等が足されてゴージャスな展開を見せる、足し算の音作りに否定的だったが、)『POP VIRUS』によってその考え方を覆されたところがあって。足し算でこのセンスをこれだけハメられるっていうのは……言い方は悪いけど、ちょっと変態っていうか(笑)」

また、本人も意識的にドラムの音を大きくしたいと考えており、既発シングルでもバランスをリミックスしています[1]。ボーカルの次にドラムが大きく収録されているように感じます。

「このアルバムの肝はビートだと思うんで、…」
「ドラムの音が近いほうがいい」」

最後に、前節で指摘したように、アルバム「Pop Virus」は、サビ直前直後の展開が似た曲が過半数を占めていることが分かりました。バラエティに富んでいるように感じるのは、編曲の作用が大きいでしょう。

4. 考察 ―「Pop Virus」に溺れられるか―

本章では、これまでの分析結果に基づいて、「Pop Virus」の評価をまとめます。

4.1. 音楽リテラシーについて

星野源は、聴き手に下記のような「音楽リテラシー」を持つことを望んでいます[5]。

「自分の中のイメージを話してくれたり、○○を思い出しましたとか、漠然とスゲー好きですとか、すごく良かったですとか」

その一方で、「音楽リテラシー」がない現状を嘆いています[1]。

「音楽をそのままの音楽として受け取れる人ってこの国にいるのかな?って感じる。」

本作では、「音楽から何かを受け取る」「イメージを想起する」が促進されるような作品なのか、どれだけ溺れるように・自分のための曲と感じることができるかを考察します。

4.2. 描写のスイッチ速度・曲からのイメージ想起のハードル

個人的に「Pop Virus」には、「目まぐるしい」と「似たような描写」という形容詞が合うと感じます。
歌詞から想起される時間・空間が、曲中で頻繁に変化することから、情景が次から次へと移行する目まぐるしさがあります。たとえば「Family Song」では日常の描写を次々と提示するカメラワークを意図していると予想されます。これには、聴き手が共感できる“フック”が多く提示される効果があります。そのため「こういう経験、自分にもある」として自らの歌として聴くことができます。
一方、描写される人物像や周辺環境は、様々な角度からのショットを撮っているわけではなく、様々な景色を映している傾向があります。登場人物の描写は、表 4に示すように、不特定的であり、英語に例えれば「the(定冠詞)」でなく「a(不定冠詞)」のような人物が登場します。どんな人物かが分からない。これもまた、より多くの聴き手が共感できる効果があります。
しかしながら、このような狙いに対し、各シーンに投影する間が十分に与えられていないと私は感じました。さらに、曲そのもの展開も、変化に富む編曲がなされており、目まぐるしさを助長させます。
1つの例として、淡々としたベーストラックに、次々と視点を切り替える歌詞であれば、歌詞による描写に集中できる。しかしながら、どちらも展開を多くすると、忙しさが目立つ効果が表れる。
さらに、映像が頻繁にスイッチングされるものの、それを描写する人物像や周辺環境に関してヒントが少ない傾向が見られます。
より多くの人が共感できるように最大公約数を狙った結果、踏み込みの足りない描写になったと、私は感じました。また作曲面の項で指摘したように、サビ前後のコード進行が類似していることで、各曲にイメージの差が付きづらい。

この、 “描写対象を詳細に描写しない歌詞”と“似たようなメロディ”の掛け合わせによって、「ありふれた描写」が形成されると感じます。
私は、上述の「目まぐるしい」と「ありふれた描写」の2つからは、「『Pop Virus』は、聴き手が曲からイメージ・景色を十分に想起するには、高いハードルが課せられている」と指摘したいです。
これを図示したものが、図 1です。

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図 1 楽曲における描写モデル

楽曲における描写には、単純化すると1曲をかけて1枚の絵を表現する手法と、1曲の中に様々な場面を織り込む手法が考えられます。

Model 1では、1枚の場面における要素を、歌詞を含む楽曲で描写するため、描写(赤枠部分)の数を増やすことができ、結果として精密になります。それにより表現者にとっては、聴き手側が情景を想起できることが期待できます。

一方、Model 2の場合、まず場面が複数あることを説明する必要があり、個々の描写に割くことのできる余地が少なります。その結果、聴き手は、何枚の絵を描写したかは判別できたとしても、個々の絵について詳細な情景を想起することは難しいでしょう。仮に、表現者の意図が、「この絵は、1つの絵に何場面も含まれている、コラージュであることを伝える」のであれば、その意図は達成できるかもしれません。
ここで、イメージ想起のハードルの高さを低減するアイテムとして、MVと曲名が挙げられます。
星野源のMVは、「恋」「アイデア」を目まぐるしく変化してカラフルな作品が多く、観る者を楽しませます。その一方、常に星野源を含む演奏者が画面の大部分を占めていたり、本作ではスタジオ収録で風景描写がないため、風景の想起への効果は限定的と思われます(例外的に、「Pop Virus」のMVは、非常にイメージがしやすい作品と思います)。
またタイトルは、一般名詞が選択されていることから、「ありふれた描写」の不足部分を補う効果は少ないでしょう。さらにいえば、“こども”・“子ども”・“コドモ”のいずれでもなく、「KIDS」という、最も日本人がイメージしにくい英単語を選択しており、具体化からはより一層離れていると感じます。
以上のことから、MVや曲名は、「Pop Virus」の特徴である「目まぐるしい」と「ありふれた描写」を助長させるアイテムとして機能しており、「MVや曲名は、聴き手が絵画を観るように聴くには、高いハードルを課すアルバムであるという傾向を緩和していない」と、私は思います。

4.3. 所感

分析をもとに所感(本来であれば「課題」としたいところですが、それはおこがましいので)を提示します。
絵画が14枚並べられた展覧会の会場を想像してください。それぞれの絵の1枚1枚は、非常に細かく・多くの要素が書き込みされています。しかし細かく見ていくと、ひとつひとつの各要素は、絵による異なりが少なく、同じような部分を切り取っています。そういった絵が14枚並んでいるのが、私の「Pop Virus」に対するイメージです。

4.3.1. 編曲の「アイデア」について

個人の主観なので、いじわるな言い方をすれば、「アイデアが沢山詰まっている音楽が、素晴らしいとは限らない」ことを指摘したいです。
個人的には、“書き込み量が凄いで有名な某国民的ジャンプ漫画”のように、やや情報過多のように感じました。視覚情報は、情報を細分化していく方向ですが、音楽の場合、音を足せば足すほど音量が増える一方です。視覚情報と違って、人間の可聴音量には限りがあるため、その限られた容量の中に、どう楽器の音を収納するかが大事だろうと思います。
照明に例えると、光の三原色RGBを合成すると白色となるように、ある瞬間において鳴っている音が、可聴周波数領域のうち幅広い帯域を含んでいると、ホワイトノイズに近くなります。照度が強い場(たとえば家電量販店の照明売り場など)にいると、目を開けているのが辛いように、私は「Pop Virus」をヘッドホンで聴くと、耳が痛くなりました。そういう意味では、音の詰め込み=光の強度と置き換えたほうが、感覚的には近いかもしれません。
この問題点は、音数に対して、パンニング(左右のステレオに音を振ること)が狭く、多くの音が前方から聴こえていることも挙げられます。音数が多いものほど、空間を有効活用しないと、音が限られた空間に渋滞してしまう。これでは、結局何の音を引き立てたいのかが分からなくなります。たとえば、マイケル・ジャクソンの「Thriller」は、音数が多いですが、左右の幅広い領域に音を配置しているため、個々の音を判別しやすくなっていると感じます。
さらに、音数の多さに対し、曲ごとの空気感の変化幅が狭いように感じます。これは、メロディ等のアレンジ以前の課題があるからと思います。

4.3.2. 作詞の作風について

歌詞の作風について、コンセプトが最初にあり、分析的に作詞しているのではと思わせます。
図 2Model 1に示すように、コンセプトを構成する事象を列挙し、それらを歌詞にするような手段です。これと対照的な手段として、Model 2に示すような視覚的にうったえる手段です。

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図 2 楽曲における描写モデル

たとえば「Family Song」から受ける印象では、「日常を切り取ろう」という意思が先立ち、朝→夕方→夜のそれぞれのシーンを描写したという作為を想像させます。他の曲でも、1番と2番の歌詞が、朝→夜や晴→雨のように対比される点が見られます(「Dead leaf」「アイデア」「Pair Dancer」)。

これは意図的である可能性が高く、作詞する際は、情景やイメージが浮かぶ→歌詞に置き換えるという作業順序よりも、まずコンセプトがあり、それを描写する絵コンテを設定し、歌詞するという順序ではないかと想像します。そのために、歌う対象についての描写は網羅されているため、聴き手にとっては共感を得やすい歌詞になると考えられます。また、メロディに乗せて歌詞を聴くよりも、歌詞カードをじっくりと読むことによって、歌詞への理解や納得感を育むことができると予想されます。一方、ひとつひとつの描写はあっさりとしており、また、普遍的(凡庸・ステレオタイプ)である印象を受けました。

Model 1は、たとえるならば、映画の予告編のような印象を抱きます。各曲とも、目まぐるしく画面が変化し、アイキャッチも随所に散りばめられている。
曲で描かれていることは、それぞれが2時間の映画になるような、深い内容があるのかもしれません。それを3~5分の曲に込めているのかもしれません。しかしながら、アルバムとして捉えたとき、予告編が14編収録されているアルバムよりも、ショートストーリーを14編重ねると1つの映画になっているようなものが、個人的には好きです。

4.3.3. 今後の作品について

私は、セルフプロデュースや作詞・作曲・編曲をすべて自身で担うことにこだわるのではなく、外部プロデューサーを招聘するとか、アルバムでなくても他アーティストと対等なコラボレーションを行う経験をしたほうがいいのではと思います。
本稿で指摘した、いくつかの点では、「誰か指摘してくれる人はいなかったのか?」という気がします。たとえば、サビに移行するパターンが同じ曲が、過半数を占めることは、個人的に衝撃でした。自身の作りやすいメロディ・コード進行で作曲し、それによる曲による差異を出すことが難しいという課題を編曲で補おうとするという手法は、根本的な対策とはいえません。こういった「課題とその解決策が同じ」であることは、作風に統一感が出る一方で、マンネリを招くものと予想します。
INSIDE OUTでは、曲作りと編曲についてのこだわりを述べています[6]。

作曲するときはビートをずっとループさせて、でギターを弾きながら歌いながら作るんですよ。
その時点ではビートとギターしかなってないんで、あれなんですけど…、頭ん中でこう、どんどんどんどん、こう…出来てくんですよね、イメージみたいなものが。
で、その中で、じゃあビートはこうでベースはこうでギターはこうでっていうのを頭ン中で組み立てていく中で、じゃあそこでミュージシャンをこの人でお願いします…っていうのを自分で選ぶ。セルフプロデュースなんで。
で、いわゆるこう、プロデュースしていくれる人とか編曲してくれる人がいないんですよね。だから自分で全部やるので。
シンガーソングライターっていう言い方ってあるじゃないですか。
最近はそういう気持ちちょっとなくなってきたんですけど、(ソロを)始めた当初は特に、なんか日本でシンガーソングライターなんだけどプロデューサを入れてたり、編曲家を入れてる人が凄く多いんですよね。
編曲って、物凄く大事なんで。音楽の中で。一番大事なんじゃないかってくらい個性が出るとこだと思うんですよね。それを他の人に任せてるのに、シンガーソングライターっていうのはどうなのかなっていう思いがずっとあって。

この発言からも、自覚的に自分で編曲を行い、セルフプロデュースしていることが伺えます。
星野源は、音楽に対して非常に真面目に向き合っていることは、各メディアやラジオから分かることです。その一方て、真面目に論理的・分析的に組み立てて、アイデアを多く詰め込んで作ったとして、それで「クールか?」で問われるべきなのです。アイデアの量とか密度だけによって評価される現在の様は、高い技術力で多機能を搭載して製品として成立させた日本メーカーの家電を彷彿とさせます。音楽において、iPhoneのように海外のものというだけで喜んで受け入れることも滑稽ですが、それを「日本人ならでは」のものに「真面目に・論理立てて分析的に・作り込んだもの」である「Yellow Music」が、高機能・多機能だけどクールじゃない「日本メーカーの家電」とアナロジー(相似形)をなしているとしたら、残念なことです。それは避けて欲しい。
こういった際に、外部プロデューサーがいることにより、現状の作風傾向や別の解決アイデアを作家にフィードバックされ、より広がりのある作品をつくるノウハウが獲得できるのではと思います。たとえば、スピッツがアルバム「空の飛び方」収録の「たまご」を作った際、草野マサムネは、プロデューサーの笹路正徳から「好きなコード進行やメロディラインにとらわれすぎるな」と言われて苦心して作ったそうです[7]。

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図 3 アーティストの製作モデル

図 3に、アーティストの製作モデルを示します。アーティストが表現欲求から楽曲に製作する際、関係者の意向や世間の反応のフィードバックを受けながら製作されると考えられますが、プロデューサーは、製作活動において補助的な役割をするものであり、アーティストの表現意図を阻害する(だけ)ではないと思うのです。むしろ、製作したいものを適切に形にすることこそが、アーティストにとってのゴールであり、「セルフプロデュースで製作する」ということ自体が大事ではないと思うのです。
現状では、すべて星野源自身で賄うために、「本当にこれでいいのか?」「このままでいいのか?」というフィードバックループが適切に形成されていないと見えます。
「アイデア」は、「いままでの僕(星野源)のアイデアの供養、そして再生」であるとされていますが[8]、アルバム「Pop Virus」で別離すべきだったのはアイデアではなく、それを実現する「手法」だったのではないか。
「Pop Virus」は、確かに30万枚近くの大ヒット作ですが、アルバムとしての各曲の多様性や、聴き手がイメージを想起して共有できる曲作り(作詞・作曲・編曲)において、アプローチがワンパターンであると指摘しました。本作は、星野源の音楽を広く行き渡らせる機会になったと同時に、現状の限界を示す作品であると思います。今後も新しいものを打ち出したり、聴き手に「音楽リテラシー」の向上を求めるのであれば、これまでの作風をブラッシュアップさせる試行錯誤の仕組みを取り入れていく必要があると思います。

5. 結論

アルバム「Pop Virus」の特徴についてまとめます。
① 歌詞のスイッチングと編曲の展開の早さによって、目まぐるしさが表現される。分析的な歌詞のため、共感を得やすい効果がある。また、メロディおよびコード進行と、歌詞のフレーミングで類型なものが多くみられるため、キャッチ―な曲が多い。
② 共感を得やすくキャッチ―な曲である一方、歌詞は、非概念的で非感覚的なものが多いために「絵画を観るように聴く」よりも「歌詞カードをじっくりと読んで理解する」ことに向いており、また、不特定な「君」の描写の多用や類似するフレーズによって、「ありふれた描写」となる効果がある。また、リスナーが曲を聴き、情景を想起するヒント・架け橋として、曲名やMVが機能しているとは言い難い。
 星野源は、聴き手が音楽リテラシーを有することを希望しているが、以上のことから、アルバム「Pop Virus」は、聴き手が「情景をイメージしながら聴く」ことが容易でない楽曲が多い。

6. 余談

まず、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

「Nothing」は、サビへの導入が劇的で素晴らしい曲と思います。また、前作「Yellow Dancer」にも、「Soul」「桜の森」も同様に劇的な印象を受けますしBメロがあったとしてもダンサブルな曲「Week end」は楽しい曲と感じます。嫌いなわけではないです。

また4.3.3で「今後はコラボしたほうがいいのでは?」と思っていたので、10月14日(月)にリリースされる 最新 EPリリースでのSuperorganismやPUNPEEとのコラボ作品が、ここで指摘した点を超越した作品であることを望みます。

7. 参考文献

[1] MUSICA,株式会社FACT,2019年1月号
[2] コード解析ソフト「mysoundプレーヤー,  (株)ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス製」による解析および複数のコード提供サイト(楽器me: https://gakufu.gakki.me/、ChordWiki: https://ja.chordwiki.org/, U-fret: https://www.ufret.jp/)を参考(2019年7月2日確認)
[3] https://realsound.jp/2017/01/post-10926_2.html
[4] https://www.cinra.net/interview/201902-ariizumiyanatake(2019年5月9日確認)
[5] 星野源のオールナイトニッポン,ニッポン放送,2019年2月19日放送分/
http://blog.livedoor.jp/spitame/archives/36656947.html(2019.05.25確認)
[6] INSIDE OUT,block.fm,2019年6月3日放送分
[7] SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記,TOKYO FM,2019年5月19日放送分
[8] https://rockinon.com/news/detail/179955 (2019.05.25確認)

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