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自分のやり方が悪いのか、それとも「何の理由も無い不幸」なのか、この見極めが大切。

広告の成果を追っていると「数日成果が出ない」ということがよくあります。そんなときは、焦って手汗が出ます。つい、停止したり、やり方を変えたりしたくなります。

たしかに適切にやり方を調整していうことは大切です。しかし、ときには「狼狽えずに、やり方を変えない」が正解になることがよくあります。

数日成果が出なくてもやり方を曲げてはいけない

相場やパチンコや麻雀なり、日々勝負をする人がいます。彼らは「数日成果が出なくてもやり方を曲げてはいけない」と考えています。そして、毎日淡々と勝負をこなしていきます。

なぜなら「数日成果が出ない」は多くの場合、単なる「何の理由も無い不幸」であり、やり方の真偽に関わらないからです。

世の中には「何の理由も無い不幸」が溢れている。

ぼくは麻雀が趣味で、これまで数万ゲーム近くやって来ました。

それだけの数をやると、不幸が重なり続ける日があります。「こんな不幸な人間がこの世にいるんだろうか?」と感じるぐらいの出来事が起こります。

不幸に直面した時、自分のやり方が悪いのか、それとも「何の理由も無い不幸」なのか、この見極めが大切です。

大体の人は「何の理由も無い不幸」を「私のやり方が悪いのでは?」とすり替えて認識します。そして「良かったやり方」を捨ててバランスを崩します。これが勝負の世界で退場していく人の1つのパターンです。

実際の配信データを通じて「何の理由も無い不幸」を見てみる

これは、実際の数字を見てみると分かりやすいです。例えば、とある商材で広告を打っていたとして、以下のような月ごとの成約数が上がっていました。これは、実際の数値です。

3月:30件
4月:36件
5月:43件
6月:35件

このうち、成約0件の日数は以下でした。全く成約が出ない日が約30%ほどもあります。

3月:11日
4月:8日
5月:8日
6月:10日

成約0件が2日以上続く区間の回数は以下でした。

3月:2回
4月:2回
5月:1回
6月:2回

成約0件が3日以上続く区間の回数は以下でした。

3月:0回
4月:1回
5月:1回
6月:1回

つまり、月に30件程度の成約なのであれば、2-3日成約が発生しない区間が月に1~2回はあるのが普通ということです。3日はけっこう長いです。そんなにも成約が発生しないと心理的には焦ってきます。

しかし、そのたびにわざわざ狼狽え、設定をいじったりするのはムダになることも多いでしょう。

狼狽えて広告を停止するぐらいなら放置していた方がマシ

最悪なのは、狼狽えて広告を停止してしまうことです。

わざわざ手間暇かけて成果をゼロにしています。その機会損失は計り知れません。そんな判断をするようなら、放置していた方がマシです。

実際「忙しくて3年間ログインしていませんでした…」というGoogle広告アカウントを見たことがありますが、自動入札で毎月100万円を利用し、ROIの見合う水準で成果を出し続けていました。

しかし、数日の不調で狼狽えて停止するようなおせっかいな担当がログインしていたなら、むしろ不調を引いたどこかのタイミングで停止されていたかもしれません。

しかし、いつも無視して放置していい訳ではありません。
適切にやり方を調整していきたい場面も当然あります。どういった場面なら気をつけた方がいいのでしょうか。

定量的に変化が大きいときは放置しない

「毎日1-2件の成約が上がるのに、昨日・今日と0件だった…」これはまだ気にしすぎることはありません。

しかし、「毎日10件の成約が上がるのに、昨日・今日と0件だった…」これは流石に疑って掛かったほうがいいでしょう。

「統計的に有意な差なのか?」というのも一つ目安になります。

定性的な変化があるときも放置しない

先に述べたとおり「毎日1-2件の成約が上がるのに、昨日・今日と0件だった…」は、普通であれば気にしなくても大丈夫です。

しかしこれがもし、巣ごもり需要に答えた製品の広告であり、緊急事態宣言の明けた10月に入った途端この状況になったとします。

すると、需要の低下で成約が上がりづらくなっているのでは?と疑って掛かった方がいいでしょう。定性的に明らかな変化材料があるなら、数値のジャッジを早めていいと思います。

自分のやり方が悪いのか、それとも「何の理由も無い不幸」なのか、この見極めが大切

ぼくが麻雀を通して学んだことは、「人は何の理由もなく不幸な目に合う」ということです。

数万ゲームを遊ぶと、適当に下手くそなプレイングをしたのに、勝ててしまうゲームはあります。

逆に、最善の選択肢を取り続けても、あり得ない不可避の不幸に襲れ敗北するゲームはたくさんあります。

もし麻雀の1ゲームを人生だとすると、最善を尽くしたとしても、なんの介在余地もなく不可避に命をうばわれるしかない「人生」も多分にありえるのでは、と思わずにはいられませんでした。

実際、不慮の事故などで命を落としてしまう人は、悲しいことに毎日沢山います。しかしそれはいくつかの不幸が重なっただけで簡単に起こってしまうことです。

いくら清く正しく暮らしていても、適度な運動と健康な食事を心掛けていても、人知れず世のため人のため努力し続けていても、関係ありません。なんで私なのかと?と神を恨んでも、多分そこに何の理由もありません。

ぼくのお気に入りの小説、隠れキリシタンの迫害を描いた遠藤周作『沈黙』の一節を張っておきます。

なにを言いたいのでしょう。自分でもよくわかりませぬ。ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を嚙んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を──神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして……。

とはいえ、ぼくは運命論者ではありません。運命を意志の力で変えられると信じています。

いち個人の生き死にで見るとたしかに分散は大きくなります。成功したのか、せずに死んだのかの2軸で見て、かつn=1なので、検証方法的に確実に「運次第」となります。

しかし、それは検証方法の問題であって現実の世界観ではない。事実彼のいなかった世界線との差分は確実に存在します。

例えば検証方法を変えて、いち個人だけではなく、似た考え方を持つ集団、彼の考え方を受け継ぐ集団、彼の言動が皆の無意識に与えた影響までを見る。
どんな変化をもたらしたのか様々な評価軸で見る。
これらを持ち込めば、意志の力で変えられた運命も理論上は可視化できるはずです。

実際ぼくの母は『沈黙』の舞台の長崎県黒崎村の出身でカトリックでした。数々の迫害と先人の死。個人個人で見ると世間では「犬死」といわれることもあったかもしれません。しかし無為に死んだわけではなく、数百年のときを脈々と血脈・文化・思考の癖などとして流れ、今まさにぼくの血や思考を流れているわけです。

だからぼくは意志の力を信じます。
不幸に直面した時、コントロール可能なものとして、自分のやり方に改善点があると考えます。ぼく個人や、ぼくの代だけで決着は付かないかもしれませんが、まずその姿勢は大切にしたいと思います。

しかし、かといってすべての出来事に説明が付くとは思いません。何の理由も無い不幸、不条理これらも前提として考えないと見誤る場面も多いなと思います。

だいぶ話が脱線しました。

終わり。

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