調達部門から出世した人まとめ

皆さん拝承! 部品です。
先日、僕の質問箱にこんな投稿がありました。



調達部門って出世コースじゃない!?!?!?

どの職種が出世しやすいかを今まで考えたことがあまり無かったのですが、(じゃあ調達部門出身で出世した人を調べてみよう…!)と思いました。

それでは調達部門出身で出世された人をこれから紹介していきます。

渡辺捷昭(元トヨタ自動車社長)


社長任期:2005年-2009年

調達部門出身で出世した人として1番に名前が挙がるのはトヨタの渡辺元社長と思います。

来歴

1960年3月:愛知県立岡崎高校卒業。
1964年3月:慶応義塾大学経済学部卒業。
                 →トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車)入社
       新卒での配属は人事部厚生課。従業員給食などを担当。
1976年2月:第2購買部(入社11年目)
1981年2月:第1購買部(入社16年目)
1982年9月:秘書室(入社17年目)
1988年2月:秘書室副室長(部長)入社23年目
1989年2月:総合企画室副室長
1992年1月:経営企画部長
1992年2月:取締役就任
      (経営企画部、事業開発部、情報通信部、総務部、管財部、
       トヨタ会館、トヨタ博物館担当)
1996年6月:(元町工場長、TQM推進部および生産管理部担当)
1997年6月:常務取締役就任
1999年6月:専務取締役就任
     (事業開発部門および調達部門統括、法務部担当)
2001年6月:トヨタ・マニュファクチャリング・ノースアメリカ社取締役
      およびトヨタ・モーター・エンジニアリング・
      マニュファクチャリング・ヨーロッパ社取締役を兼務
2001年6月:取締役副社長就任
     (主たる業務の分野:事業開発、調達、法務)
2005年6月:代表取締役就任

(参照:渡辺捷昭トヨタ次期社長プロフィール | レスポンス(Response.jp))


凄い経歴ですね…

エピソード

①人事部厚生課でのカイゼン活動


渡辺さんが配属されたのは人事部厚生課。新入社員として与えられた業務は社内食堂の管理でした。
自動車とは何も関係がない仕事ではありましたが、渡辺さんは食堂や調理場へ足を運び、食材の仕入れや残飯のデータを集計し、食堂運営のムダを省いていきました。
与えられた仕事で課題を自ら設定し改善していくという姿勢の大切さが分かるエピソードですね。
自分で仕事を面白くしていくというのは、こういう事を言うんだろうと思います。

(参照:渡辺トヨタ社長:社内食堂の経験生かせるか-コスト削減に挑む(2) - Bloomberg)

②副社長として原価低減活動(CCC21)を推進


2000(平成12)年7月、トヨタは、従来にない枠組みでの原価低減活動「CCC21(Construction of Cost Competitiveness 21)」に着手しました。
これは主要173品目を対象に30%の低減を目指し、技術、生産技術・生産、調達、仕入先の4者が一体となって活動を推進しました。

結果、少ない部品の種類で多様な製品を生み出すモジュール設計の考え方が浸透し、「車に合わせて部品を造るのではなく、部品に合わせて車を造る」ということができるようになりました。

(参照:トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第3部 第4章 第7節|第2項 「CCC21」への着手 (toyota.co.jp)
モジュラーデザイン---トヨタが強いもう一つの理由 | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com))

③社長として過去最高の販売台数と史上最高益を達成


前任の奥田元社長の海外販路拡大路線を継承し、2007年にトヨタグループ累計の年間販売台数は過去最高の936万6,418台を達成しました (僅差で世界2位)。
そして2008年3月期は連結営業利益を2兆2703億円として史上最高益を達成した。翌2008年の世界販売台数はリーマンショックにより落ち込むものの、GMを抜いて初めて世界一を達成しました。

調達部門出身らしく、生産とコスト削減による利益創出が得意だったようですね。



田中 久雄(元東芝社長)


社長任期:2013年-2015年

来歴

1969年:兵庫県立兵庫高等学校
1973年:神戸商科大学(現兵庫県立大学)商経学部卒業
     →東芝入社。資材部配属
ロンドン、サンフランシスコ、ボストン、そしてフィリピンと15年間余りの海外駐在を経験。フィリピンでは人事・総務も担当。
2002年:デジタルメディアネットワーク社資材調達部長
2004年:PC&ネットワーク社資材調達部長
2006年:執行役常務
2008年:執行役上席常務
2009年:執行役専務
2011年:取締役・代表執行役副社長
2013年:社長

(参照:東芝・田中新社長 初の調達畑出身、生産現場に強く - 日本経済新聞 (nikkei.com))

エピソード

①配属ガチャ失敗


神戸出身の田中さんは本社が川崎の東芝に入社するも何故か「東芝でも関西勤務ができるだろう」と思っていた。結果、配属は本社の資材部。ちなみに職種は営業を志望していた。

田中さん「フィリピン勤務までの23年間、資材部門にいたからこそ、生産や技術をはじめ全社の部門、さらには取引先ともつながって、事業や製品の内容や戦略を自然に知ることができた。最初の仕事が欧米からの医療機器向け部品の輸入だった縁で、希望していた海外勤務にもつながった。振り返れば、幸運だった」
(参照:意を一つにして防いだ「六馬不和」 -東芝社長 田中久雄【1】 (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン))

田中さんの初期配属は自分の志望とは勤務地も職種も全く異なるものだったんですね。
それでも業務経験を重ねて「振り返れば幸運だった」と言っているのは、自分の努力で自分のキャリアを成功に変えていったということなんだろうと思います。

②調達部門の責任者として日米半導体摩擦に対処

1980年代、「64キロビットDRAM」という半導体において、日本企業は合計70%ものシェアを占め、米国の30%を大きく上回りました。

そこで米国半導体メーカーは「日本の半導体メーカーが不当に半導体を廉価販売している」と主張しし、日本製半導体をダンピング違反として米通商代表部(USTR)に提訴しました。
(1985年当時の半導体の世界ランキングは、
1位NEC、2位日立製作所、3位東芝、4位Motorola(モトローラ)、
5位TI(テキサスインスツルメンツ)、6位Philips、7位富士通、
8位松下電器産業(現パナソニック)、9位三菱電機、10位Intel(インテル))

当時、米国は「日本はもっと米国製の半導体を買え」と強硬姿勢を取っていました。しかし、東芝一社でも、たくさんの部署が、多様な半導体を使っており、個々に対応すると無駄やコスト増が生じる可能性が高かった。

当時の東芝は部門ごとに部品番号がばらばらで、どれくらいの半導体を購入しているのか全体で把握できていないという問題がありました。
そこで社内の反対を押し切って部門コードの一本化を実施し、米国のメーカー別、分野別に検索するためのデータベースを作成します。

結果、米国製の半導体は全体の18%で、分野によって使用率にばらつきがあることが分かりました。米国メーカーに「もっと買えと言うなら、こういう分野でいい品を用意しろ」と反論し、貿易摩擦に対応します。

(参照:意を一つにして防いだ「六馬不和」 -東芝社長 田中久雄【1】 (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン))

自分が重要だと思ったことは社内の反対を押し切ってもやり切る実行力が見えますね。
自分の頭で考えて問題を解決していくことが大切なのだと思いました。

③東芝英国の副社長としてプリマス工場を再建

2000年3月、テレビを組み立てていた東芝英国の生産担当副社長に赴任。
イングランドの港湾都市プリマスで、債務超過に陥っていた工場の再建が任務。英国勤務は2度目で約22年ぶり、40代最後の年だった

「おそらく、工場内が整っていない、つまり「景色」がダメなのではないか。ボス的な人間が牛耳り、「組織」が機能していないのではないか。そんな状況下で、従業員たちの「意識」がばらばらなのではないか。そんな景色、組織、意識の「3つのシキ」に課題があるのだろう。」

部長会で「来週までにきれいにしなかったら、自分と部長全員の机をゴミの山の中へ移す」と強い剣幕で宣言し、工場から40トンもの不要物を除去。「景色」を第一に改善した。

生産ラインの改善にも乗り出した。
「プリマスでは、1本の生産ラインに7人が付き、長いラインに部品が42個も乗っていた。一人当たり6個は、明らかに過剰。あるラインの女性リーダーに、そう指摘した。でも、それで何が悪いのか、といぶかる。「もし神であれば、一度に6個でも扱えるが、凡人は常に1個しか触れない。7人なら、ライン上には7個しか要らないのだ」と説き、乗せる部品を減らし、ラインは切って縮めた」

田中さんは、青梅工場時代の上司でフィリピンの社長だった先輩から言われたことが役に立っているという。
田中さんはずっと調達部門でキャリアを積み、フィリピンでは人事や総務も担当したが、生産は技術系の先輩である社長がみた。しかい、社長に何度も「言葉と紙で仕事が進む『調達民族』で終わるな。モノづくりを勉強しなさい」と言われる。先輩から学んだ生産現場への意識が、プリマス工場の改善につながったと語っている。

(参照:改革で留意した「致數輿無輿」 -東芝社長 田中久雄【2】 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン))

私も現場を見に行くことが大事だと先輩からよく言われますが、それはどの会社でも同じなのだなと感じました。
この工場勤務で色んなことを私も吸収していこうと思います。


清水正孝(元東京電力社長)


社長任期:2008年-2011年

来歴

横浜市出身。父も東電マン。
栄光学園中学・高校を卒業後、慶応義塾大学経済学部へ進学。
1968年:慶応義塾大学卒業
     池袋支店に配属
1969年:品川支店。その後、柏営業所。
    検針・集金などの仕事を4年間担当。 
その後、横浜火力発電所に配属、当直三交替を経験。原子力発電所にも勤務。

1972年:本店の資材部配給課
1983年:福島第二原子力発電所の総務担当
1995年:資材部長
2001年:取締役
2004年:常務取締役。関連事業部と資材部を受け持つ。
2008年:社長就任。東京大学以外の大学出身の社長は青木均一
    (東京高等商業学校、現在の一橋大学出身)以来47年ぶり。
    初の私立大学出身の社長でもある。

エピソード

①先輩からの指導


当時は芝浦、千住、越中島にあった配給所のほか、各支店、営業所にも資材倉庫が点在していた。期末の棚卸の際には現地に出向いて変圧器や電線の管理状況も確認していた。
先輩「毎年膨大な設備を発注する会社は取引先に対して強い立場になってしまうことがある。取引先企業は共に支えるパートナーであって発注者論理だけを押し出して応対してはならない」
また、清水さんは資材部門について「資材取引の姿勢を見れば、その企業の健全性や公正性を読み取ることができる」とも語っています。
(
参照:清水正孝「役員の横顔 それぞれの担当業務の基礎固めに着実に取り組もう」『とうでん』2006年5月P19-20)

調達部門におけるCSR順守は今では口酸っぱく言われていますが、昭和の頃はコンプライアンスなんて意識は今よりかなり少なかったと聞きます。
そんな中で真摯に取引先へ向き合うように指導していた先輩は出来た人だったんだろうなと思います。

②常務就任時のインタビュー

常務就任時には
「グループ全体でのコストダウンの推進や生産性の向上については、これからが本番だと思います」
「現状で何が問題なのかに気付くのは誰でも簡単ではありませんが、たとえば、世の中一般の水準と比べてみたり、同業他社のやり方を見たり、そして何よりもお客さまの目線からあらためて見直してみれば、改善のネタは宝の山だろうと思います」
と語っている。
(参照:清水正孝「役員の横顔 それぞれの担当業務の基礎固めに着実に取り組もう」『とうでん』2006年5月P18-19)

自社だけに目線を向けるのではなく、社外にも視野を広げてコストダウンに取り組むということですね。
幅広い視野で合理化を推進していく姿勢が見えます。

③コストカッター

発電所や変電所で使用する資材の調達部門を長く担当し、
本社資材部長就任後は、各支店の資材調達を本社に一本化、費用切り詰めに成功した。

海外出張で遣う航空会社の絞り込みなど、日常業務まで徹底してコストカットを進め、大量発注によるコスト削減には限界があると見て、納入業者を競わせてコストを下げる方式も導入している。

発電所の六十数万点の部品・部材の調達方法を見直し、全体で2兆円かかっていた調達費を4割削減に成功した。

その結果として資金繰りが悪化し、廃業した中小取引先の元経営者にも親身に相談に乗り「飾らない人材」と評される。

社内で徹底的なコスト削減で手腕を発揮し、資材部長時代に当時は珍しかった国際入札で輸入を拡大し、韓国の金大中大統領からは感謝の電子メールが届いたこともある。

(参照:コスト意識に挑む電力(けいざい先を読む けいざい深く読む”. 朝日新聞: p. 7. (2001年11月26日
(新社長)東京電力 清水正孝氏 剛腕、異色の資材出身”. 朝日新聞: p. 10. (2008年8月23日)
[登場]東京電力の次期社長・清水正孝氏63 コスト減で手腕”. 読売新聞: p. 8. (2008年1月23日))


集中購買と入札方式でコスト低減を進めてきた実績があります。
半官半民の企業でここまでコストダウンで成果を出している手腕はすごいですね。剛腕という感じがします。

鶴田国昭(元コンチネンタル航空副社長)


来歴

1937年東京都大田区出身。
武蔵工大在学中の19歳で父親となり、結婚。

大学を中退し、苦労の末に就職した川崎重工から日本航空機製造に出向。
YS―11機のSEとしてフィリピン、米国に派遣され、プロダクト・サポートに従事。同機製造中止に伴い帰国。

その後、ピードモント航空に入社。
1984年、資材担当副社長に就任。
ミッドウェィ航空上級副社長を経て、
1994年、経営危機にあったコンチネンタル航空に購買担当上級副社長として招かれ、見事に立て直しに成功した。

2003年、同社退社。現在は航空機ビジネスのプロフェッショナルとして多忙な日々を送る。テキサス州・ヒューストン在住。77歳

(参照:NEWS TOKYO 都政新聞株式会社 | トップインタビュー Vol.71 日本航空株式会社 アドバイザー 鶴田国昭さん)

エピソード

鶴田さんについてはこの本をぜひ読んでみてください。

①コンチネンタル航空にて200機のボーイング737を購入


1990年、アメリカでは航空機の騒音規制を実施し、騒音規制上「レベル3」と呼ばれるレベルまで騒音を規制する規制を設けました。
「飛行機に消音装置を付けるか?」「エンジンを交換するか?」などが社内で話し合われ、コンチネンタル航空では他社と同様に消音装置を付けることで意見がまとまり準備が始まりました。

その流れに待ったをかけたのが鶴田さん。
○「飛行機に消音装置を付けるには1機あたり2-3億円かかる」
○「消音装置を付ける間、飛行機は飛ばせない。
 作業に5日間かかるとして、200機の飛行機すべてに作業をすると
200機×5日=1,000日。飛行機1機を3年以上遊ばせる計算になる」
○「消音装置を付けると燃費が悪くなる」
○「重量が増えて有価重量が減る」
⇒この機会に旧型機を引退させて新しい飛行機を購入するべきだ。
 その方が運航コストが安いし、
 少ない飛行機で効率的なオペレーションができる。

社内では「どこにそんなお金があるんだ」との反対意見が強かったですが、
古い飛行機は整備に時間がかかるし燃費も悪い。運航中止のリスクも高い。

そこでボーイング社の副社長に資料を作ってもらい、社長に進言。
結果、新型機の導入が決まったそうです。

そしてこの時、大量購入を材料に価格交渉をした結果、30%もの値引きに成功したそうです。

資材調達という視点にとらわれず、コストを削減するにはどうしたら良いのかを広い視点で考えることの大切さがわかりますね。

②石油をタンカーごと購入。キャパオーバー分は売りさばく

燃料である石油を安く買うため、前任者と同じくシェルやエクソンと交渉していた鶴田さん。しかし、石油元売りは値下げ交渉に応じてくれません。

そこで、ベネズエラ政府に「石油をタンカーごと購入したらいくらになるのか」と問い合わせた鶴田さん。
ベネズエラ政府からは、エアラインが普段購入しているよりガロン当たり10セント安く買えることが分かりました。

しかしネックになったのが当時所属していたピードモント航空のキャパシティ。自社のタンクにはタンカーの半分しか貯蔵できませんでした。

そこで自社で貯蔵できない分は1ガロンあたり3セントを上乗せして日本の商社に売りさばいたそうです。

そして、抗議に来た石油元売りに対して「ベネズエラと同じ値段にするなら買ってやる」と言い放ち、シェルからの価格をベネズエラと同じ価格まで下げることに成功しました。

タンカーを丸ごと買切る豪快さと、商社に売って利益を出す賢さが凄いですね。

③過剰在庫1,000億円の削減に成功

コンチネンタル航空は4社のエアラインが合併してできたことで、3メーカー16機種の飛行機を飛ばしていました。
補用品をそれぞれの機種ごとに準備せねばならず、パイロットのやりくりにも苦労していたので、4機種に整理することになりました。

そして信頼できない部品を購入したり能力や設備が追い付かないので故障が重なり、故障に対応するために更に補用品を購入するという悪循環で、補用品の在庫がどんどん増えていきました。

そこで、整備の仕事を10年契約で外注し、アウトソーシング先に補用品の在庫を引き取ってもらうことにしました。
しかも売却価格は市場価格で決めたので、簿価よりも遥かに高い金額で買い取ってもらえることになりました。

アウトソーシング先には10年間の安定契約、自社としては在庫の整理ができてWIN-WINの関係を構築することができました。

このように、お互いにとって利益となるのが理想的な交渉なのだと思います



その他、調達出身で出世した方々

詳しい経歴を調べることはできませんでしたが、他にも多くの方々が調達部門から出世していったことが分かりました。
以下、今回調べて分かった調達部門出身のビジネスマンです。

内田誠:日産自動車CEO(元ルノー・日産パーチェシングオフィス課長級)
アシュワニ・グプタ:日産自動車COO(元ルノーインド購買部長)
八郷隆弘:ホンダ社長(元本田技研購買部長)
西川廣人:元日産自動車CEO(元購買担当副社長)
山内康裕:元日産自動車COO(元資材・部品調達部部長)
白柳正義:トヨタ紡織社長(元トヨタ自動車ボデー部品調達部部長)

まだまだ他にもいるとは思いますので、情報がありましたら部品くんまで教えてください。


まとめと所感

大企業で調達部門から出世した4人の方を主に紹介しました。
共通していることは、現場をよく見て、自分の頭で考え、合理化を推進していったことだと思います。
私がどんなキャリアを進むのか、まだはっきりとは分かりませんが先人たちの背中を参考に、私も自分の目で現場を視て、自分の頭で考え、会社の利益につながるように合理化を進めていきたいと思います。

以上です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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