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よう知らんけど

昔short noteで書いたネタから。

大阪人の口癖、みたいなのでネタになる「よう知らんけど」。
あることを聞かれたら色々ウンチクめいたことを散々述べた後に、最後に「よう知らんけど」とオチのようなものがつく。

「通天閣にはどう行けば?」
「ああ、環状線に乗って新今宮の駅で降りて、ちょっと駅の周り見渡したら、背の高いのが見えるから、そっち向いて歩いていったら行けるよ。よう知らんけど」
なんて会話があるのかどうか不明ですが、この「よう知らんけど」は、まぁよく出来た大阪人のステレオタイプを表していると思います。
むしろ「よう知らんけど」がつくと、大阪人らしくみえる。京都人の「ぶぶ漬け」みたいなキーワードかも知れません。

そもそも、この「よう知らんけど」がつくと、なぜ大阪人っぽく見えるのか?
そこは、大阪人の気質をよく表した・見抜いた言い回しに思います。
大阪人というのは、総じて関西人の中でも「目立ちたがり」が多い気がします。
なので、先程のように、何か困っている人がいて「どうすればわかりますか?」みたいに聞かれたら「知りません」とは言いたくない。
なので、とりあえず、自分の知っている知識で答えようとする。
これは人情深さによる「なんとかしてあげよう」という感情的なものか、フェルミ推定の亜種と考えるかはともかく「All or Nothing」ではなく、80点でも答えに近づくという感じかもしれませんし、また答えに近づいたときには(先の例でいえば、新今宮の駅でもう一度聞けばいいわけで)より詳しい人が答えを導いてくれるはずだ!という、無言の信頼かも知れません。
ともかく、なんとかして少しでも正解に近づけようとしたところ、最後につく「よう知らんけど」です。

これはなかなか巧みな言い回し。「間違っててもごめんな」という責任回避が見て取れますね。

「私の知っている情報だとこうだけどもしかしたら間違ってるかも知れないから信じてしまって迷惑をかけたらすまない」という、無言の責任回避。
さすがは商売人の街・大阪の「口約束とはいえ契約などで迂闊に言質を取られてはたまるか!」という商魂のようなものも感じますね。

あと「自分が提供した情報が、あなたの欲しいもの一致している保証はない」というニュアンスでも解釈できますね。
先の「通天閣にはどう行けば?」も、聞いた本人が自分の足で行くのなら、先の問答のように「実際見ればわかる」というので正解に辿り着けそうですが、もしかすると、聞いてきたその人は地図を書いて欲しいだけで、自分が行くわけではないのかも知れない。だとすると「実際見ればわかる」な回答はピントのズレた答えになってしまう。

そういう状況・コンテキストを100%理解できずに回答した回答は、あなたの意に沿っているかわからない、そこでやはり「(あなたの状況は)よう知らんけど(私は頑張って回答した)」と出てくるわけですね。
ネットでの言い回しに使うなら「通天閣へはどう行けば?」「ググれカス」と言われるところ「よう知らんけど、こうやで」と言うのは、親切なのかも知れません。

ネットでの話ということになると、5ちゃんねるのいわゆる「なんJ民」の怪しい関西弁が使われてたりしますけれど、ネット民も関西弁キャラになると、少なくとも「ググれカス」と突き放すよりも、なんか色々教えてくれる、親切な人になっている気がします(笑)(中身が本物の関西人なのかは、それこそよう知らん)

なんて、書いておいて、私もここまで色々書いておいて、関西人らしく
「長々書いたけど大体あってるんちゃうかな?よう知らんけど」
ということで。

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