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桜の記憶――いるだけで、誰かの光になること

あっという間に桜の花は終わり、柔らかい緑色の葉が芽吹き始めました。はらはらと散る桜を見ると、ふと思い出す春の風景は父がまだ赤ちゃんだった私の息子を抱いてお花見をしている姿です。

きれいでせつない記憶に、胸が少し苦しくなります。けれど大切な思い出です。

父はその同じ年の夏に亡くなりました。だからお花見の頃にはもう相当に体調が悪く、入院と入院の合間でしたが、1歳にもならない孫と一緒に近所の土手の桜並木を見に行くと言い出しました。
結構な人が出ている中、「なんだか今年の桜はいつもよりきれいだなあ」と父はしきりに言っていました。おそらくこれが父の見る最後の桜になるとみんなわかっていて、だからその言葉はよりせつなかった。
父はかわいくてならない孫と、どうしても一緒に桜を見たかったのでしょう。

「ある人の存在そのものが光になる」のは本当なのだと、私はこの時期に知りました。
最後の数カ月、父はほとんど動けず病院のベッドの上で過ごしましたが、「おじいちゃーん、また来るよー」と声をかけながら孫(私の息子)の顔を枕元に近づけると、大きく目を開けて変顔をしたり(孫を笑わすため)、にっこり笑ったりしました。
痛み止めの麻酔で意識が半分朦朧としているようになっても。

この世に生まれてまだ1年もたたない存在である息子が、父の最後の数カ月に小さな光を与えてくれていました。
息子はもちろん何も覚えていない。でも、彼は生まれてすぐにおじいちゃんの光になり、笑えるような状態でないおじいちゃんを笑わせてくれた――
そのことに私は心の底から、今も感謝しています。(たとえ日常では息子の言動にいらっとしたり、腹を立てたりすることがあっても!)

別に価値のあること、意味のあることをしなくてもいい。
そこにいるだけで価値がある。
――ふだんはなかなか素直にそう思えないけど、桜の季節になるといつも「人はいるだけで誰かを救ってることもある」と思い出します。



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