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『シン・ウルトラマン』感想綴れ書き 一般層の怪獣映画への造詣のアップデート

 公開初日も含めて2回鑑賞。劇場にまた観に行くかはわかりませんが、円盤ないし配信に来たら何度も視返すであろうくらい自分は面白かったです。

 ※映画本編、関連作品のネタバレを具体的に書き綴っています。まだ鑑賞されておられない方はこの先読まれませんよう。


<アバンタイトル〜ネロンガ戦前まで>

 冒頭、元祖ウルトラマンのアバンタイトル再現でウルトラQの文字か?と思わせてからの「シン・ゴジラ」次いで「シン・ウルトラマン」のアバンにおお〜っとなった。ウルトラQと元祖ウルトラマンとの関係性のような、地続きとか直接の続編ではなくともシン・ゴジラと同じシリーズに位置する宣言と受け取った。その直後に明らかにゴジラ第四形態を素体にしたゴメス登場で、そうきたか!と心中で膝を打たされた。ゴーガじゃなくてカイゲル??準備稿時の名称あたりか?

 ダイジェスト形式の冒頭説明は『パシフィック・リム』から採用だろうか、防災庁設立時のカットがたまたまなのか嶋田久作と岩松了のあとしまつコンビなのに少しウケつつ、禍威獣災害の最初の発生から現況までの提示、禍特対の結成経緯および戦果・実績&有用なチームであることの観客への印象づけを上手く行っていると感じた。

 バラゴンの着ぐるみを流用したパゴス、ネロンガ、ガボラ(マグラーはおそらく登場体数の絡みで不採用)のチョイスも、パシフィック・リムのkaijuがヒントでしょうか、同素体を用いた生物兵器バリエーションとの設定はオリジナル着ぐるみへのオマージュも兼ねた上手い設定だと思った。


 「シン・ゴジラ」は祝福であり呪いとなってしまったのだなとつくづく思う。シン・ゴジラ有りき、シン・ゴジラ基準の観客を考慮に入れておくことが必須となり、怪獣の登場する新たな特撮映画作品においては個々の作品として切り離しての評価を得ることはもはや難しく、どのような形であれシン・ゴジラを抜きには良くも悪くも語れなくなってしまった。
 シン・ゴジラと比較、後継の期待を背負わされてしまった「大怪獣のあとしまつ」だが、はからずもデウス・エクス・マキナ的存在による怪獣退治フォーマットを広く予習させる役割を担った形になったのは、「シン・ウルトラマン」および一般観客層の双方にとって幸いした意図せぬ副作用だったのかもしれない。

 同じ東宝作品で庵野・樋口コンビの「シン・ウルトラマン」においては他社作品に及ぼす影響とは様相が異なり、前作「シン・ゴジラ」を同じシリーズとして観客がなぞらえることで、
・巨大不明生物が現れた以降の同様の世界観
・政府等の動き、諸外国との情勢
・自衛隊による怪獣≒禍威獣対応
・巨災対の立ち位置や手腕等≒同レベル以上の禍特対
等々については、シン・ゴジラ鑑賞済みの観客が擬似的に共通基盤として予め履修済みであるとして構成することで、シン・ウルトラマン本編ではこれらを直接描かずに導入することに成功していると思った。
 元祖ウルトラマンをこれ一作で描き切る前提の場合、登場させるのを怪獣(→禍威獣)か宇宙人(→外星人)のどちらか一方だけにもできず、またそれぞれ1体だけではボリューム不足、計5体以上だと尺が足りずで、
・ウルトラマンとの初遭遇
・禍威獣エピソード×2
・外星人エピソード×2
・ゼットン戦
は最低限必要で崩せない構成だったと思われる。
 本編112分のうち、「M八七」のエンドロールが5分弱で、残りをネロンガからゼットンまでの5エピソードで割ると1エピソードあたり21分強。これはTVシリーズ単話からOPとEDを抜いたのと同等の尺で、もしもエピソード間のキリの良いところで分割するだけでそのまま5話構成で30分番組としても成り立つようにもしてあったりするなら面白いとついつい妄想した。


 神永新二(融合したウルトラマン)の思考・行動にも焦点を当てつつストーリーが展開される。
 基本、対策本部内で分析・立案・指示を行う設定の禍特対に身を置く主人公の正体隠匿に関しては、変身する必要が生じるたびに現場離脱を繰り返していつまでも身バレしないというのはどうにも無理があり過ぎる。なので、ガボラ事案直後まだ有耶無耶の状況のなか無断欠勤を続けての単独行動で行方をくらまし、そうこうしてるうちに変身動画拡散(ザラブによるリーク?)で早々に身バレに至る展開は、より無理がない落とし所と感じた。

 ウルトラマンとしての正体がバレることがどのような事態を招き寄せ、身近な者たちを巻き込むのか、正体を知った者たちが放っておいてなどくれず己の都合で利用しようと画策してくるのを、惑うことなく冷静に対処する神永ウルトラマン。
 対極に、暴力でも知恵でも外星人には敵わないと思い知らされた絶望から投げやりとなった、人間である滝が言う。人類の力が及ばないことでもウルトラマンならあっさり解決(あとしまつ)してくれる、ウルトラマンに全部任せるのが正解なんだ、と。
 人類の可能性を信じる神永ウルトラマンは言う。ウルトラマンは万能の神ではない、君たちと同じ命を持つ生命体だ、僕は君たち人類のすべてに期待する、と。


 デザインワークス掲載の庵野氏の手記によると、主人公とヒロインの恋愛要素も盛り込んでいてキスシーンも撮ってはいたが、編集時に全体とのバランス等を考えてカットしたとのこと。

 セクハラと下ネタがはたしてどの範囲まで同一に語られるべきかわからないが、大怪獣のあとしまつの下ネタを酷評するのであれば、シン・ウルトラマンでセクハラだと問題視されている描写についても同じ基準で批評すべきだと思うし、逆もまた然りであってほしいと願う。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの評価だって全然有りだと思うが、そのことを表明していればであって、伏せてのダブルスタンダードはフェアでないと考える。
 セクハラと下ネタは別物だと捉えるのであれば、こちらがセクハラになるというならあちらの下ネタはこちらなんかよりもっと酷いとする比較は成り立たないのでは。
 例えば、そういう捉え方をするのは過敏だと言う評価をするのであれば、別の作品への同じ捉え方に対しても評価が同様でなければ、その評価者へは信頼が置けない。 


 「シン・ゴジラ」から、奇しくも「大怪獣のあとしまつ」への酷評を経たことで一般観客層の怪獣映画への造詣が少しでも深まり解像度がより上がった状態で「シン・ウルトラマン」は公開を迎えることになったと思う。
 また、「シン・ウルトラマン」を観たことによりもっとアップデートされた解像度で鑑賞する「大怪獣のあとしまつ」などの他作品についてもまた評価が違ってくるかもしれない。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

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