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複製技術時代の人間

まもなく電子書籍の「ためし読み」もスタートしますが、『いのちを“つくって”もいいですか?』の冒頭は、手塚治虫の絶筆作品『ネオ・ファウスト』の紹介から始まります。

『ネオ・ファウスト』は、物語の舞台を1960年代~70年代初めの日本に置き換えた、J・W・ゲーテの傑作『ファウスト』の翻案作品です。高度経済成長期から大学闘争の時代の日本社会の雰囲気をとても濃密に描いていながら、登場人物のセリフやふるまいは見事に原作『ファウスト』を再現しており、さながら秀逸な現代的演出を施した古典オペラのようです(すみません、オペラ観劇の経験など数えるほどしかないのですが、縁あって「演出家の目から見るオペラの魅力」を届ける連載を企画・担当していたことがあり、ちょっとわかったようなことを書いてしまいました)。私自身そうですが、ゲーテの原作が好きな読者は、折々に「こうきたか!」とその構成の妙に呻らされることでしょう。

ただ、著者・手塚治虫の死により、開始早々に永遠に止まってしまった(あのセリフもまだ言っていないのに!)第二部については、もし描き続けられていたとしたら、果してどんな構成になっていたのでしょうか。『いのちを~』でも引いた手塚の構想によれば、この作品は彼自身のバイオテクノロジーに対する不安や拒否反応などを表現することが企図されていたそうです。第一部ではまだそのような印象は強くありませんでしたが、物語が進むほどにきっと彼の主張が前景に現れてきたのではないかと思います(『ブッダ』なども、ブッダ=ゴータマ・シッダールタの評伝マンガというより、それを題材として描かれた手塚治虫自身の生命観や宇宙観の哲学、といったケースもありますし)。またゲーテの『ファウスト』を読まれた方はご存知のとおり、第二部の物語世界はとてつもないスケールで展開され、読者にとってもかなり歯ごたえのあるものですね。手塚自身の強いメッセージを盛り込みながら、ゲーテの世界観とセリフ回しをどこまで再現できるものなのだろうか……

でも、きっと期待に違わない、いやそれ以上に私たちの想像を超えたやり方で、魅力的でまた社会に大きな問いを投げかける作品が描かれたのではないか、と第一部を読みながら改めて思うのです。本当に、この続きが永遠に見られないことが残念でなりません。

さて、手塚の構想にあったように、第二部では「クローン(人間)」がひとつのカギになるはずで、『いのちを〜』もその部分からラエリアン・ムーブメントの話題などに展開していきます。

クローンへの欲望とは、自己自身を複製することによって永続的に存在すること、つまり「永遠の生命」を求めるあり方の一つと言えるでしょう。

「永遠の生命」に対する願望は、古代より変わることなく人間が求めてきたもので、キリスト教やイスラーム、あるいは古代エジプトの神話などに見られるように、身体は滅びてもその後に「魂」が永遠のやすらぎを得ることを求める、ということが宗教的な伝統として世界的にも広く存在しました。またケルト神話の「常若の国(ティル・ナ・ノーグ)」、アジアの宗教でいえばヒンドゥー教やインド仏教における輪廻のサイクルから抜け出すこと(解脱)、あるいは浄土信仰における「西方浄土」など、彼岸と此岸のような、あるラインを超えた世界の存在を想定する、というパターンも多く見られますね。

一方で、秦の始皇帝が徐福に命じて不老不死の薬を求めさせたように、人間がその身体を維持したまま永遠の生命を求める、という形もさまざまな形で存在します。それはまた、単に自らの永世だけでなく、『ファウスト』にも描かれるホムンクルスのような、人間の手による生命創造・付与の技術を目指す方向にも広がります(このテーマについてはまた別途取り上げます)。クローンとは、その技術が進歩していった結果、それを再び自分自身にフィードバックして、己の永遠の生命を実現しようとする試みなのかもしれませんね。

手塚治虫の『火の鳥』は、まさに「永遠の生命」を正面から問うた作品ですが、「生命編」でクローンが中心テーマとなるものの、これは永世を求める目的とはちょっと異なるかもしれません。クローン技術によるコピーを重ねての永遠の生命を扱った作品としては、『ルパン三世「ルパンVS複製人間(クローン)』が秀逸。想定の壮大さにクラクラしながら観たことを思い出します。また、昨年のシャルリー・エブド事件当日に発売(本国フランス)されたことで『服従』(河出書房新社、2015)が大いに注目を集めましたが、その著者ミシェル・ウエルベックは『ある島の可能性』(河出文庫、2016/元は角川書店、2007)で、クローンが記憶を引き継いで生き続ける新しい人類の世界を描いています。

また、テレビから◯◯が現れる衝撃的なシーンで一躍ブームとなった映画「リング」ですが、その原作である鈴木光司『リング』(角川書店、1991)は、3部作としてその後『らせん』(1995)『ループ』(1998)へと続きます。完結編である『ループ』は、それまでの作品世界を一転させる驚くべき事実が明かされます。そして、いわゆるクローンとは少々異なりますが、そこでは「コンピューター上の仮想世界にプログラムとなって生きる人間」というものが描かれ、その「コピー」が物語の重要なカギにもなるのです。

昨年、Google社が「故人の人格をダウンロードする」技術の特許を申請しました(記事:故人を“再生”できる 「性格」ダウンロード技術、グーグルが特許…ロボットの「性格」簡単カスタマイズ)。まだまだ未完成の部分は多いとはいえ、技術は確実に、そして私たちの想像を超えて進歩していきますし、またこのようなことを実際に志向する人も少なからず存在します。先の『ループ』は、そのような状況を早くに予見していたとも言えるでしょう。またジョニー・デップ主演の『トランセンデンス』(2014)は、まさにそのようにして身体を離れ、電脳空間において自律的に存在するようになった人格、を描いた映画でした。せっかく興味深いテーマを取り上げているのに、その部分の掘り下げ方が全く不十分で、その結末か……と個人的にはやや残念な映画ではありましたが、「複製による生命の延長」という問題を深く考えてみるための、よき入り口になる作品だと思います。

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