見出し画像

【前編】昭和・平成・令和につながった 長い長い「人生のストーリー」

高校時代に付き合っていた「彼」とのお話です。以前、書いた記事を再編集しています。とても長い記事です。


【プロローグ】

私は、人生は「一期一会」だと思っている。
これまでの60年間、それぞれの年代で、今とは、全然違う人間関係の中で、生きていた。それぞれの人と、その時は深く関わても、60年生きてくると、人間関係が選定されていく。

そう思ったら、「この人」は、昭和から、平成、令和と続く、長い歳月の中で、ずっといる。その人は、私の「人生の登場人物」から、いなくなることがなかった。

還暦を迎えた時、なんだか突然、「その人」と再び会うことになった。私は、再び思い巡らす。

その人は、中学の同級生だった。そして、高校入学後、私たちは、付き合っていた。この頃、私は単純に彼が好きだったし「一緒にいることが当たり前」だと思っていた。

私たちは、「アマチュア無線」で、毎晩おしゃべりをしていた。

「時間」と「周波数」を決めて、机の上に置いた「無線機」で、夜中いつまでも私たちは、喋っていた。「固定電話」の「子機」も無い時代。いわゆる「黒電話」の時代。だからこそ、自分の部屋で、親から干渉されること無く、時間も気にせず友達と喋れることは、とても素敵なことだった。

会話が途切れれば、お互いに電波を出すことなく「無線機」の前に座っていただけ。それでも、私たちは繋がっていた。

無線の電波は、当然、他の人とも共有されているから、「私たちの会話」に、知らない誰かが、入ってくる可能性はあったし、「私たちの会話」は誰かに聞かれていたかもしれない。だけど、そんなこと、全く気にもせず、二人で喋っていた。

彼とは、通っている高校は違った。だから、日常的な共通事項は無い。それなのに、何故か、話すことが沢山あった。いま思うと、不思議なぐらい、話すことがあった。いったい何を話していたのだろう。覚えていない~

「トランシーバーの会話」は、電話とは違う「キャッチボール形式」

私たちが使っていた、無線機は「トランシーバー」だったから、相手が話している間は、話をかぶせることをしない。相手が話している間は、一方的に聞いて、こちらは喋れない。自分が、話している時は、その逆で、相手は、自分の声を一方的に聞いている。

ある時、彼が、電波を出しっぱなしにして、寝てしまった。だけど、「トランシーバー」だからどうすることもできない。私は、諦めて寝て、次の日の朝、起きると直ぐに、彼の家に電話をして「電波が出しっぱなしになってるよ。」と伝えたことがあった。

「黒電話の時代」は、必ずと言っていいほど、電話は、家族の人に取り次いでもらう。彼の家は電話をすると、だいたい彼のお母さんが出た。だから、彼のお母さんと「言葉を交わすこと」は、あたり前のことだった。

こんな感じで始まった、私たちの「対話」は、「黒電話の時代」から始まり、「携帯電話」そして「SNS時代」へと連絡ツールは変化し、さまざまな変遷を得て、還暦まで繋がった。結婚したわけでもないのに… 今の若い人には、想像がつかない風景の中で、私たちは「対話」をしていた。

【高校編】

◆彼との放課後~いつも行く「名曲喫茶」があった。

彼とは、違う高校に通っていた。学校の帰り「彼の学校がある最寄り駅」で時々、待ち合わせをした。「私の学校の最寄り駅」から、電車で4つ目の駅。乗り換える駅を通過して、彼の待つ駅に向かった。

私たちは、その駅のそばにある「名曲喫茶」で、過ごすことがあった。

「カラオケ」なんて当然ない時代。「マクドナルド」は、あったかもしれないけれど、今ほどイートインも充実していなかった。

昨今では、「喫茶店」というもの自体が、昭和レトロ文化の一つとされている。それとはちょっと違って、「名曲喫茶」とは、クラッシックの曲をリクエストすると、お店がレコードをかけてくれる「喫茶店」なのだ。

私は、ピアノをずっとやっていて、発表会に弾く、ショパンの曲をリクエストして、かけてもらったことを覚えている。

「カセットテープ」はあったけれど「ウォークマン」は、まだ無い時代。「ラジカセ」も無かったかな~「音楽を持ち歩く」ことが、できない時代だった。

◆高校生とは、「とてつもない体力」を持っている~

 彼は「自転車通学」をしていた。だから、自転車に「二人乗り」をして、私の家まで送ってくれることがあった。
でも時々、自転車に乗ってこない日が、あった。 彼が自転車では無かった日、私たちは、歩いて帰った。車だと、30分ぐらい掛かる距離を、いつものように喋りながら、歩くのだ。しかも、学校のカバンを持って、2時間以上の道のりを~

現在60歳の私には、考えられない。

あの距離を学校のカバンを持って、歩くのか…高校生は~、しかも喋りながら~ ちょっとした「有酸素運動」だ。しかも、ダラダラと歩いているうちに、夕方遅くなり、後半の道を走って帰った。

ぜんぜん覚えていなかったけれど、「日記」を読み返すと、そう書いてあった。

最近その箇所を「日記」に見つけて読んだ時、思わず「うそ~」と声が出た。高校生って、恐ろしほど元気なんだ!

朝から学校に行って、放課後は彼と会って、歩いて帰っても、夜はきっとアマチュア無線で、夜中またずっと「お喋り」したんだろうなぁ~、この日も・・・今だったら、起きていられない~

この頃、「一緒にいることが当たり前」だった私たちは、「大人になる日が来る」なんて、想像すらしていなかった。

〔彼の家で生まれた子犬〕この写真で、無線用のカードを作った。

初めて、彼と出かけたのは、高校の入学式を目前に控えた「春休み」だった。「エッシャ展」に行ったのを覚えている。会場に行くと、驚くことに母がいた。「エッシャ展」を観たかったことと、娘が男の子と出かけることを知って、気になったのだ~きっと・・・

◆彼と「遠出した日」の事

高校生になってから、私たちは、基本的に地元でブラブラしている感じで、「どこかに出かける」ということをしなかった…と思う。だけど、一度だけ、電車に乗って、一日出掛けたことがあった。

高校1年の確か「寒い季節」だった。この日、朝まだ暗いうちに、私の家の前で、待ち合わせをした。自転車で、坂道を降りてくる彼を、私は、家の門の前で待った。駅前に自転車を置いて、始発電車で、私たちは出掛けた。

この日の目的は、上野の美術館で開催されてた「ゴッホ展」を観に行くことだった。それにしても、早すぎる。どうやって時間をつぶしたのか、全く覚えていない。

お昼前には、観終わって、その後、上野から電車に乗って「鎌倉」へ向かった。最初から計画を立てていたわけではなかった。

その当時「北鎌倉で降りて~歩いてみませんか~♪」という歌が、流行っていた。彼の提案で、その逆、「鎌倉から北鎌倉へ歩こう!」ということになったのだ。

鎌倉駅前の「普通のラーメン屋さん」でお昼を食べた。この時のラーメン代は、「割り勘」だったのか「彼が払ってくれたのか」全く覚えていないけれど、駅前の映画館で「小さな恋のメロディー」のリバイバル上映をしていて、看板が大きく出ていた風景は、今でも覚えている。

お昼を食べた後、「北鎌倉駅」を目指して、私たちは、歩いた。

「スマホがない時代」いちいち写真は撮らない。
今の高校生なら、デートで、スマホで写真ぐらい撮るのだろうか。ツーショットの写真」とか「お昼に食べたラーメンの写真」とか、なんでもかんでも、いちいち写真に撮っておくのだろうか~

私が高校生の時代「カメラを持って出かける」というのは、特別なことだった。スマホは、無いわけだから「いちいち写真を撮る」という感覚が、そもそも「昭和の高校生」には、ないのだ。

この日の写真は、1枚もない。だから素敵な思い出なのだ。
あの日の風景は、私の記憶の中にだけある。

写真はなくても、この日の風景は、ぼんやりと、そして「確かに」私の中に、存在している。この日、一緒に歩いた道の風景を、なんとなく覚えている。途中、どこか、お寺に寄ったことも、なんとなく覚えている。

この日、帰宅すると、母に「朝から、いったい何処に行ってたの!」と怒られた。高校生の私は、この日「誰」と「どこに行く」のかも告げずに早朝「親が起きてくる前」に家を出て、途中いっさい、親に連絡していないのだから、怒られるのは、当然なのだ~。

「携帯電話」は無いわけだし、「公衆電話」で、私から家に電話をしない限り、親とはつながらない。この頃は、まだ「テレホンカード」もなかった。

私の家に着いた時には、すっかり日が暮れて暗くなっていた。彼は、再び自転車に乗って、帰っていった。

こんなに長い時間を、彼と一緒に過ごしたのは、この日が初めてだった。

今の恋愛は「やたら記念日をつくりたがる」と「小姑キャラ」の私は、日ごろ感じている。だけど今風にいったら、この日は、私にとって「彼と過ごした記念日」だったのかもしれない。

◆彼から言われて「ショックだった言葉」

どんなタイミングだったのだろう。彼が、唐突に言った。

「自分には、お母さん、お父さん、お兄ちゃんという家族がいて、この家族が一番で、君は、二番目だよ。」

当たり前すぎるこの言葉に、私は、どうしてショックを受けたのだろう。

当時、私には、学校の友達もいたし、いじめがあったわけでもない。周りからみたら「楽しい学校生活」を送っていたと思う。しかし実際は、毎日の学校生活に「意味」を見出せず、苦しんでいた。

そんな日々の中で、自分が生きているのか、死んでいるのか、わからなくなるぐらい苦しかった。だから、「彼との関係性」は、私にとって、唯一「自分」を確認させてくれるものだった。

彼の存在は、私にとって「現実的な生活の中」ではなく、全く「別な次元」にあった。「彼との関係性」は私にとってどこか「異次元のこと」だった。これが、当時の私の真意だった。

だから彼が「家族」という「現実的な存在」と私を並べ、順列を付けたことで、たぶん私は、傷ついたのだろう。「自分とは違う感覚」の彼を認識してしまったのだろう。

彼のこの言葉が、私の心に「グサッ」と刺さったことを、彼は、全くわからなかったと思う。私も彼に、何も言わなかったし…

たいていの場合、人は、何かショックなことを言われた時に、そんなに簡単に、言い返せない。ましてや、少女だった私は…。
60歳になった今の自分が、思い出しながら、客観的に「この時のこと」を分析してるから、解説できるのであって、当時の私は、ここまで彼の存在を認識しながら付き合っていたわけではない。ただ「楽しいから一緒にいる」そんな単純な考えだったと思う。

◆当時は分からなかった彼のお母さんの「怒り」

ある日、学校の友達と彼が授業をさぼった。それがバレて、お母さんが、学校に呼び出された。この日、彼のお母さんの怒りが「沸点」に達した。たぶん、これは「きっかけ」に過ぎず、それまでに、彼の日常の中で「お母さん的に頭に来ること」が、いっぱいあったのだろう。

「学校の呼び出し」から帰った彼のお母さんは、彼が幼い時に、お母さんが書いていた「日記」を、息子にたたきつけた。
彼は、幼稚園の時に「入院したこと」があった。その時、お母さんが、書いた「日記」だ。

後日、彼は私に「この出来事」を話した。
そして、細かい字で、紙いっぱいに書かれているお母さんの「日記」を見せてくれた。誰かに見せるために書かれたものではない、その「日記」を私が目にすることに「大きな戸惑い」を感じたこと覚えている。その文章には、私の知らない「幼い頃の彼の姿」が、愛情いっぱいに書かれていた。

今なら私も、同じ母親として、彼のお母さんの気持ちがわかる。彼のお母さんは、よっぽど悔しかったのだと思う。母親は、無意識に全身全霊をかけて、子どもを育てている。一生懸命育ててきた我が子に「裏切られたような気持ち」になったのだ。高校生だった私は、彼に「気の利いた言葉」を、何一つ言ってあげれなかった。

・「母親の怒り方」に対する彼の「否定的見解」とは~

彼は、お母さんの「怒り方」について、よくこんなことを言っていた。
「学校の成績のことを怒りたければ、それだけ怒ればいいのに、生活が乱れてるとか、お酒やタバコやってるんじゃないの~とか、色々なことを全部、よせ集めてきて、まとめて、怒っていくから、イヤなんだよ!」

基本的に「良い子だった私」は、この発言に、「あー、わかる、わかる~うちのお母さんもそうよ~~」みたいには、共感してあげられなかった。

ところが、自分が親になり、高校生の我が子を怒っていた時、なぜか過去の彼の「この発言」が、突然、頭を横切り、「あ~、こうゆうことだったのか~!」と腑に落ちたことがあった。

・「母親の怒り」とは、こうゆうこと~

母親は、我が子の日々の生活の中で「常に気になること」がある。そのひとつ一つは、とても些細なこと。だから、「今日は、怒らずに、過ごそう」と、様々なことに目をつむっている。怒ってばかりの毎日は、母親にとって、つらいのだ。でも、その怒りは、日に日にチャージされていく。

そして、チャージされた怒りが、ある日、突然、「沸点」に達する。この時、一気に日ごろの怒りが、沸き上がるのだ!そのきっかけになるのは、それこそ些細なこと。

「毎日、毎日、お母さんは、あなたの態度にどれだけ我慢していると思っているの~!」そんな感じで。全部まとめて言いたくなる。

「腑に落ちた瞬間」私も、娘を怒っていた。最初はたぶん「お弁当箱をどうして毎日ちゃんと出さないの~」から始まり、「脱いだ洋服片付けろ~」とか「朝はちゃんと起きろ~」とか、最後は、何を怒っていたのか分からなくなっていた。

今なら「高校生の彼」に、お母さんの気持ちを解説してあげられるのに~

◆彼から渡された「二十歳の原点」

私の世代より、一回り上の世代、いわゆる「学生運動」を経験した「団塊の世代」で、立命館大学の学生だった高野悦子さんの日記をまとめた3巻からなる「二十歳の原点」という本がある。
ある日、それを彼から渡された。全3巻を彼から借りて、私は読んだ。

私たちの世代は「高度成長期」の真っただ中で育ち「戦後の貧しい日本」を知らない世代だ。「赤軍の浅間山荘事件」は、小学生の時だった。この高野悦子さんの世代と「私たちの世代」はちょっと違うけれど、大人になっていく高校生の自分たちにとって、当時「通過点」のように存在していた本だった。

彼とこの本について、どんなことを話したのかは、覚えていない。もしかしたら、「この本は読んでおくべきだから」と、渡して来たのかもしれない。少なくとも、高校生の彼が、この本を読んだことは事実だ。

高校生の彼の中に、何か「藻掻いていること」が、あったのだろうか。

「無いわけがない」今でも、私は、そう思ている。

10代は、楽しそうに見えるけれど「未熟な自分」と向き合わなければならない「苦しい時間」でもある。

60歳過ぎると「3年=半年ぐらい」の感じで~、気がつくと数年が、過ぎている。もっと速い感覚かもしれない~。
でも、高校生にとっては、1年という長さが持つ「比重」は、大人とは違う。ストップウォッチの絶対値では、測れない「意味」が、その時間に発生するのが10代だ。

高校生だった私は、数年後にくる「二十歳」という年齢が、ものすごく「遠く」にあるように感じていた。だから、自分が「二十歳」になった時、何を感じて、何を思うのか、この頃、全く想像できなかった。

◆「厭世観」という言葉を彼が口にした。

ある日、彼が「厭世」という言葉を口にした。私は無知で「えんせい」って「遠征」?とボケたことしか思いつかなかった。
私は、「厭世観」という言葉を、この時、初めて知った。

今の10代の人たちは、どんな思いで生きているのだろう。「いじめ問題」や様々な社会の変化はあるけれど、楽しいのかな~。

私たちが10代の頃、世の中は、今よりもっと「封建的」だった。今のような「多様性」とか「自分らしさ」とか、社会の中になかった。最近よく耳にする「生きずらさ」という言葉さえなかった。

だから、こんな「大人の社会」に出ていくのは「イヤだ」と私は思っていたし、そういう「社会」そのものに対しても、嫌悪していた。

日々の「何気ない出来事」を通して「彼との関係性」は、少しずつ変化していった。彼も、私も、そんな「時代の中」で「大人になる」ということが、大きな壁のように、立ちはだかっていた。

【浪人編】

高校を卒業後も、彼との付き合いは続いた。
私は、短大に進学し、彼は「浪人生」となった。

◆確信した彼の「純粋な心」

私が、入学した学校は「カトリック・ミッションスクール」だった。初めての「女子校」が、私は心地よかった。そして毎日、「お祈りの時間」があった。

日本人にとって、あまり馴染みのないキリスト教の「神」という存在を、シスターは「良心」という言葉で学生たちに話をした。「神」とは、どのような存在なのか、それを考えさせられる言葉が、毎日、私に投げかけられた。そして、私の個人的な問いにも、シスターは、丁寧に向き合ってくれた。そんな学生生活を送っていた私は、高校時代とは違う「模索」を始めていた。

ある6月の早朝、彼に呼び出されて、朝日の中を一緒に「散歩」をしたことがあった。私は、一緒に歩く彼に、こんなことを尋ねた。

「人間にとって『良心』って、なんだと思う?」

日々の中で「答え」を見つけられず「ドツボにハマっていた」私は、何か答えが欲しくて、この日、彼に何気なく尋ねた。

すると
「良心は、人間にとって絶対的なものでしょ。」と彼は答えた。

迷うことなく、当然のように、もともと知っていたかのように、即座に彼は答えた。私は「不意を突かれたような」気持ちになった。それが「正解」かどうか、ということよりも「彼なりの『答え』を持っている」ということが、私を驚かせた。

「絶対的なもの…」彼の「迷いがない答え」に、この人は、私が探している何と「同じもの」を持っているのかもしれない…、そんな「期待」あるいは「安心」「信頼」…何かは、わからなかったけれど大きな喜びを、驚きと共に感じたことを覚えている。
この時、私は彼の中に、何か「キラっと光ったもの」をみたのだ。

しかしこの頃、この出来事とは裏はらに、彼に対して「距離」を感じるようになった。何故かは分からないけれど、私たちの「関係性」は、高校時代の「無邪気な」ものとは、少しずつ変わっていった。

この人は私がみている方向とは「違うところをみている」「私から離れていく…」そう思う自分を、否定しながらも…、そんなことを感じていた。

◆受け止められなかった「彼の異変」

〔夏〕学生だった私は夏休み、でも彼は「浪人生」なので、夏休みは関係ない。しかも、彼は「宅浪」だった。
※「宅浪」とは「予備校」には通わず「自宅」で勉強する「浪人生」のこと。

今の若い人には、想像できないと思うけれど、私の時代(1970年代後半)は、例えば、「マックのイートインスペース」とか「フードコート」とか「スタバ」とか、こういう学生が「勉強に使えそうな場所」は、無かった。「塾の自習スペース」も私にしたら「最近できた場所」だ。頼みの「図書館」も、今より数も少なかったし、充実していなかった。だから「宅浪」の彼は、ひたすら「自宅」で勉強していた。

画像2を拡大表示

彼の毎日は、そんな生活だったから、気分転換のためなのか、散歩がてら私の家によく来た。

もともと高校生の時から、彼は私の家によく来た。私の家族とも顔なじみだった。でも、この夏は、本当に毎日のように来ていた。そんな彼の精神状態は、日を追うごとに「疲弊」していった。

そして彼は「自分との対話をボイコットする」ようになる。この頃から、だんだんと「彼から発される言葉」に、私は憤慨するようになった。
そして「入試」に向かって、彼はどんどん変わっていく。

夏の終わりぐらいから、私は、彼とまともな「対話」はできなくなっていた。

彼は「国立志望」ではなかったけれど、私たちの世代は、共通テスト(センター試験)が導入された初期の世代だ。「偏差値教育」の真っただ中にいた。今もそうなのかもしれないけれど、ひたすら「決まった解答」を求められ、数字で全てが判断された。

彼は、そんな「社会の価値観」の中で苦しんでいるようだった。

だから、彼の発する言葉に憤慨しながらも、受験が終わるまでは… 今が「特殊な状況」なのだから、私は待とうと思った。

黄色いお花を拡大表示

秋になると、彼は、勉強に集中していたから、会う機会は、確実に減った。それでも、連絡は取っていたし、会うこともあった。
でも会うたびに、私は「彼の豹変ぶり」に引き続き「憤り」を感じていた。

自宅で浪人生活をしている過酷な状況を思えば、彼の「豹変」は、当然なのだけれども、精神的に幼かった私は、受け止めることができなかった。

でも彼の中にみた「純粋な輝き」を私は信じていた。だから、会わないでいると「会いたい」と思うのだ。「今の彼」は好きじゃない。だけど…受験が終われば・・・それまでは待とう。そんな気持ちで、彼を見ていた。

*******

◆出来なくなってしまった「彼との対話」

年が明け、入試が迫ってくる。彼の精神状態は、まともな感じではなかった。「こんな彼は、初めて。彼ではないみたい。人間ではないみたい。」私は、そこまで彼が「変わった」と感じていた。

本当に入試が迫ってくると、会う頻度も減り、高校時代のように毎日、話をすることもなかった。だからこそ、久しぶりに会うと「彼の変貌」をはっきりと認識してしまうのだ。

「社会の規範」にハメ込まれ、本人が気がつかないうちに、いつの間にか人格が変異してしまう様を、目のあたりにしている感じだった。

彼の口から発される言葉は「排他的」で、それまでと明らかに違っていた。

「社会の価値観に抗うことは意味が無いのだ」と、ただ「強がっている」ようにも見えた。

入試が終り、彼は「第一志望の大学に合格」した。

だけど、私の「憤り」と「葛藤」は、その後も、止むことがなかった。

「良心は、人にとって絶対的なもの」という彼の言葉は、私の中でいつまでも輝いていた。この言葉の背後に見えた「彼の輝き」を、私は心から信じていたし、そんな彼が好きだったのだ。だからこそ、彼が、彼自身の「本来の心」を離れて、このまま、大人になってしまうのではと、ハラハラしながら彼を見ていた。

高校時代、あんなに毎日、話すことがあった彼と「対話」が、全くできなくなっていた。私には「わからない風景」を、彼は見ているようだった。

この年の春、彼は晴れて「大学生」になった。そして、私たちは少しずつ「それぞれの道」を考え始めるようになった。

【二十歳編】

◆彼とは、一緒に大人になれなかった。

大学生になった彼は、突然「バンド活動」を始めた。
そして、大学には通わなかった。

彼は、もともと「人前に出ることは好きなタイプ」だ。音楽も好きな人だった。中学の時、トロンボーンを吹いている姿も見たことがある。高校生の時、ギターもいじっていた。

でも、何故(?_?)~

私は、想定外すぎて「混乱」した。

あんなに苦しい浪人生活を送って、大学に行ったのに…(?_?) 
そして、何故バンドなの??そんなこと全然、言ってなかったじゃない~

幼児教育学科の学生だった私は、幼稚園での「長期実習」や「卒論の準備」に忙しかった。卒業後の進路についても、考えなければならなかった。

この年の夏、彼とは、完全に話がかみ合わなくなっていた。

◆私を「がっかり」させた「彼の言葉」

彼が、ものすごい勢いで「将来の夢」を追いかけていることが、心配だった。

何故、こんなに「急ぐ」のだろう。何故、こんなに「焦っている」のだろう。私は、彼のスピードに付いていかれなかった。私は、すっかり「置いてきぼり」だった。

彼の大学生活は「合格して終わり」だった。

ひとつの分野を「専門的に学ぶ」という経験を彼は望んでいなかった。大学という場所で、学ぶ機会を手放している彼が、私には、とても残念だった。

「何のために大学に入ったの?」という私の問いに、彼は、「合格するためだよ。」と答えた。

この言葉は、私を「心底がっかり」させた。

◆今でも覚えている「苦いシーン」

地元のライブハウスで「バンド活動」をしながら、彼のバンドが、ロックコンテストに出場することになった。とはいえ、そう簡単にグランプリが取れるわけではない。それでも「ファン」は付くのだ。当然「女の子のファン」も付くのだ。

コンテストに出場すると聞いて、私は、会場まで観に行った。すっかり「蚊帳の外」だった私は、なんだか一人で行くのが怖かった。中学時代の友達を誘って、一緒に行った。「なんで、みに行っちゃったのだろう~」今となっては、そう思う。

コンテストが終り、私は、彼のところに行った。

彼の周りには、沢山の人がいた。私と「目が合った」彼は、チラッと私を見て、表情一つ変えることはなかった。私は、声をかけることが出来なかった。もはや、私は、彼の前に「いない存在」だった。「ファン」と思われる女の子が、彼の横に「ぴったり」と立っていた。

その彼の姿に「こんな人だったけ~??」私は「完全にがっかり」してしまった。だけど、この目の前の彼が「今の彼なのだ」と認めるしかなかった。

「純粋な思考」を求めてしまったら「力を失ってしまう」と勘違いしている、見せかけの華やかさの中で「彼の本当の輝き」が、失われているようにしか、私には思えなかった。
彼には「彼の考え」が当然あったと思う。でも、それを「二番目の私」に語ることはなかった。彼は、それを私とは分かち合うことはなかった。

浪人の時から、少しずつ変わっていった彼を見てきて、それでも高校時代から「私の中にいる彼」をどこかで信じていて、諦められずにきたけれど…、目の前の現実を、受け入れるしかなかった。彼は私の「行きたくない世界」に行ってしまった。

彼が行こうとしている世界に、私は行きたくなかった。

この日、「苦いシーン」を思い返しながら、私の中で「一つの決心」が生まれた。

「もう彼を追うのは、やめよう。彼を待つのは、や~めた!」

四季の変化と共に風景が変わるように、私たちも「季節」が変わって、それに付随して「二人の関係性」が変わった境界となった出来事だった。一緒にいることが「自然なこと」では、なくなった。

私にとって「苦い出来事」だったけれど、若かったせいか「傷ついた」という感覚は無かった。私たちはお互い、将来について何も約束をしていなかった・・・だからかもしれない。

あるいは、ずっと一緒にいて、彼も私も、お互いに「離れてみたくなった」のかもしれない。まだ、二人とも若かったから。

◆彼から「解放」された「最後の春休み」

彼とは、秋以降、全く連絡を取ることはなかった。「別れる」とかそういう区切りが、ハッキリあったわけではない。確実に言えたのは、少なくとも「彼のことで、私は悩まなくてよかった」ということだ。だから、この時期、私はとても自由だった。

この時期の私は、周りの友達が「就職活動」をする中、進路に結論を出せず、ウダウダしていた。卒論提出後のシスターとの面談では、せっかく用意された「企業の採用情報」を、私は見ることなく終わった。

大人になる寸前で、自分の心が固まらなかった。時代のせいもあったと思う。当時「女性の生き方」は、多様性に乏しかった。そして私の中にあるアイディアも乏しかった。私にとって、社会に出るということは「何かを諦めること」に思えた。

1月の卒業試験が終わり、3月の卒業式までは「学生最後の長い春休み」だった。

◆卒業後の彼との「再会」

短大卒業後、彼から連絡が来て、久しぶりに会ったのは、半年以上経った頃だった。

実は~
短大を卒業した年に、彼ではない「別の人」と、私は結婚をした。春休みのバイト先で知り合った人と、5月から付き合い出して、結婚しようと思ったのだ。ところが、歳が離れていることや、仕事の分野が父と全く違うことや、私が若すぎるとか、何やかんやで「親から大反対」された。結婚まで漕ぎ付けるのにホント大変だった。

「結婚」という「人生の進路」を選んだ私は、親の大反対の末に「大きな覚悟」を持って、人生を進んでいった訳だけれど、彼と久しぶりに会ったのは、まだ親からこんなに反対されるなんて「全く想像していない時期」だった。だから、彼からみたら「結婚」を前にした私は、きっと「有頂天」に見えたと思う。

今、思い返すと「親に話すより先」に、彼に「結婚」することを伝えている。私は、自分の話ばかりで、この日、彼の話を聞いた記憶は、無い。

「大学はどうしているの?」「バンドは、まだ続けているの?」こんな質問をしてもよかったのかもしれない。でも、彼が大学に通っているかどうか、「バンド活動」がどうなっていようと、そんなことは、私の中で、完全に「終わっている事」だった。

私たちは、地下鉄に乗って途中まで一緒に帰った。私が、先に降りたのか、どこの駅で別れたのか、よく覚えていない。

結婚前に、彼と会ったのは、これが最後だった。

◆彼のお母さんからの電話と「本当のお別れ」

数日後、彼から、電話が来た。
彼のお母さんが「私と話したい」とのことだった。電話の向こうで、彼がお母さんと電話をかわった。

電話口で、彼のお母さんは、私の結婚に対して「おめでとう」と言ってくれた。そして、「幸せになってください。」と言ってくれたことを今でも、はっきり覚えている。

私は、当時、本当に幼かった。だから、「ありがとうございます」の言葉以外、何も言えなかった。

一緒にいることが当たり前で、自然だった「彼との関係性」は、ここで完全に終わった。

大人になった私たちは、その後もいろんな出来事の中で、新たなステージで、形を変え繋がっていったけれど、高校生の時のような「無邪気な対話」をすることは、二度となかった。

【前編】おしまい~【後編】へと続く



よろしければサポートお願いします! 頂いたサポートは、「刺繍図書館」と「浪江・子どもプロジェクト」の運営に使わせて頂きます! サポート頂けたら、大変助かります。