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【前編】昭和・平成・令和につながった 長い長い「人生のストーリー」

高校時代に付き合っていた「彼」とのお話です。


【プロローグ】



人生は「一期一会」60年生きてくると、人間関係も選定される。

そう思ったら「彼」は、昭和、平成、令和と続く、長い歳月の中で、ずっといる。

還暦を迎えた時、突然、「彼」と再び会うことになった。
私は、再び思い巡らす。

彼とは、中学の同級生だった。

そして、高校入学後、私たちは、付き合った。

この頃、私は単純に彼が好きだったし「一緒にいることが当たり前」だと思っていた。

「アマチュア無線」で毎晩おしゃべり

「時間」と「周波数」を決めて、机の上に置いた「無線機」で、夜中いつまでも私たちは、喋っていた。

「固定電話」の「子機」も無い時代。
いわゆる「黒電話」の時代。

だからこそ、自分の部屋で、親から干渉されること無く、時間も気にせず友達と喋れることは、とても素敵なことだった。

会話が途切れれば、お互いに電波を出すことなく「無線機」の前に座っていただけ。

それでも、私たちは繋がっていた。

無線の電波は、当然、他の人とも共有されているから「二人の会話」に、知らない誰かが、入ってくる可能性はあったし「二人の会話」は誰かに聞かれていたかもしれない。だけど、そんなこと、全く気にもせず、二人で喋っていた。

彼とは、通っている高校は違った。
だから、日常的な共通事項は無い。
それなのに、何故か、話すことが沢山あった。
いま思うと、不思議なぐらい、話すことがあった。
いったい何を話していたのだろう。覚えていない~

電話とは違う「キャッチボール形式」

私たちが使っていた、無線機は「トランシーバー」だったから、相手が話している間は、話をかぶせることをしない。相手が話している間は、一方的に聞いて、こちらは喋れない。

ある時、彼が、電波を出しっぱなしにして、寝てしまった。

だけど、「トランシーバー」だからどうすることもできない。私は、諦めて寝て、次の日の朝、起きると直ぐに、彼の家に電話をして「電波が出しっぱなしになってるよ。」と伝えたことがあった。

「黒電話の時代」は、必ずと言っていいほど、電話は、家族の人に取り次いでもらう。彼の家は電話をすると、だいたい彼のお母さんが出た。だから、彼のお母さんと「言葉を交わすこと」は、あたり前のことだった。

こんな感じで始まった、私たちの「対話」は、「黒電話」から始まり、「携帯電話」そして「SNS時代」へと連絡ツールは変化し、さまざまな変遷を得て、還暦まで繋がった。

結婚したわけでもないのに… 今の若い人には、想像がつかない風景の中で、私たちは「対話」をしていた。

【高校編】

◆ 放課後は~「名曲喫茶」

学校の帰り、彼の学校がある「駅」で時々、待ち合わせをした。「私の学校の駅」から、電車で4つ目の駅。

私たちは、その駅のそばにある「名曲喫茶」で、過ごすことがあった。

「カラオケ」なんて当然ない時代。「マクドナルド」は、あったかもしれないけれど、今ほど「イートイン」も充実していなかった。

「名曲喫茶」とは、クラッシックの曲をリクエストすると、お店がレコードをかけてくれる「喫茶店」なのだ。

私は、ピアノをずっとやっていて、発表会に弾く、ショパンの曲をリクエストして、かけてもらったことを覚えている。

「カセットテープ」はあったけれど「ウォークマン」は、まだ無い時代。「音楽を持ち歩く」ことが、できない時代だった。

◆高校生とは、「とてつもない体力」を持っている~

 彼は「自転車通学」をしていた。だから、自転車に「二人乗り」をして、私の家まで送ってくれることがあった。

ある日、彼が自転車では無かった日、私たちは、歩いて帰った。

車だと、40分ぐらい掛かる距離を、学校の重いカバンを持って、
歩くのか…高校生は~、

しかも喋りながら~ 

ダラダラと歩いているうちに、夕方遅くなり、後半、遅くなるといけないと言って「走って帰った」と「日記」を読み返すと、そう書いてあった。

ぜんぜん覚えていなかったけれど、


その箇所を「日記」に見つけて読んだ時、
思わず「うそ~」と声が出た。

今の私には、考えられない。

高校生って、恐ろしほど元気なんだ!

この頃、「一緒にいることが当たり前」だった私たちは、「大人になる日が来る」なんて、想像すらしていなかった。

〔彼の家で生まれた子犬〕この写真で、無線用のカードを作った。


◆彼と「遠出した日」の事

高校生になってから、私たちは、基本的に地元でブラブラしている感じで、「どこかに出かける」ということをしなかった…と思う。だけど、一度だけ、電車に乗って、一日出掛けたことがあった。

高校1年の確か「寒い季節」だった。
この日、朝まだ暗い時間、待ち合わせをした。
自転車で、坂道を降りてくる彼を、私は、自宅の門の前で待った。
駅前に自転車を置いて、始発電車で、私たちは出掛けた。

この日の目的は、上野の美術館で開催されてた「ゴッホ展」を観に行くことだった。それにしても、早すぎる。どうやって時間をつぶしたのか、全く覚えていない。

お昼前には、観終わって、その後、上野から電車に乗って「鎌倉」へ向うことにした。最初から計画を立てていたわけではなかった。

その当時「北鎌倉で降りて~歩いてみませんか~♪」という歌が、流行っていた。彼の提案で、その逆、「鎌倉から北鎌倉へ歩こう!」ということになったのだ。

鎌倉駅前の「普通のラーメン屋さん」でお昼を食べた。この時「割り勘」だったのか「彼が払ってくれたのか」全く覚えていないけれど、駅前の映画館で「小さな恋のメロディー」のリバイバル上映をしていて、その看板の風景は、今でも覚えている。

お昼を食べた後、「北鎌倉駅」を目指して、私たちは、歩いた。

「スマホがない時代」いちいち写真は撮らない。

今の高校生なら、デートで、スマホで写真ぐらい撮るのだろうか。ツーショットの写真」とか「お昼に食べたラーメンの写真」とか~

「いちいち写真を撮る」という感覚が、そもそも「昭和の高校生」には、ないのだ。

この日の写真は、1枚もない。
だから素敵な思い出なのだ。
あの日の風景は、私の記憶の中にだけある。

写真はなくても、この日の風景は、ぼんやりと、そして「確かに」私の中に、存在している。
この日、一緒に歩いた道の風景を、なんとなく覚えている。
途中、どこかのお寺に寄ったことも、なんとなく覚えている。

この日、帰宅すると、母に「朝から、いったい何処に行ってたの!」と怒られた。この日「誰」と「どこに行く」のかも告げずに早朝「親が起きてくる前」に家を出て、途中いっさい、親に連絡していないのだから、怒られるのは、当然なのだ~。

「携帯電話」は無いし「公衆電話」で、私から家に電話をしない限り、親とは繋がらない。この頃は「テレホンカード」もなかった。

私の家に着いた時には、すっかり日が暮れて暗くなっていた。彼は、再び自転車に乗って、帰っていった。

こんなに長い時間を、彼と一緒に過ごしたのは、この日が初めてだった。

今の恋愛は、やたら「記念日」をつくりたがる~。
今風にいったら、この日は、私にとって彼との「記念日」だったのかもしれない。

◆ショックだった言葉

どんなタイミングだったのだろう。
彼が、唐突に言った。

「自分には、お母さん、お父さん、お兄ちゃんという家族がいて、この家族が一番で、君は、二番目だよ。」

当たり前すぎるこの言葉に、私は、どうしてショックを受けたのだろう。

当時、私には、学校の友達もいたし、いじめがあったわけでもない。周りからみたら「楽しい学校生活」を送っていたと思う。しかし実際は、毎日の学校生活に「意味」を見出せず、苦しんでいた。

自分が、生きているのか、死んでいるのか、わからなくなるぐらい苦しかった。だから、「彼との関係性」は、私にとって、唯一「自分」を確認させてくれるものだった。

彼の存在は、私にとって「現実的な生活の中」ではなく、全く「別な次元」にあった。「彼との関係性」は、私にとってどこか「異次元のこと」だった。これが、当時の私の真意だった。

だから彼が「家族」という「現実的な存在」と私を並べ、順列を付けたことに、たぶん、私は傷ついたのだろう。
自分とは違う「感覚」の「彼」を認識してしまったのだ。

この事は、彼には、全くわからなかったと思う。
私も、何も言わなかったし…

人は、何かショックなことを言われた時に、そんなに簡単に、言い返せない。ましてや、少女だった私は…。

60歳になった自分が、思い出しながら、俯瞰して、この時の事を分析してるから、解説できるのであって、当時の私は、ここまで彼の存在を認識しながら付き合っていた訳ではない。

ただ「楽しいから一緒にいる」そんな単純な考えだったのだ。

◆当時は分からなかった、彼のお母さんの「怒り」

ある日、学校の友達と彼が授業をさぼった。
それがバレて、お母さんが、学校に呼び出された。

この日、彼のお母さんの怒りが「沸点」に達した。

たぶん、これは「きっかけ」に過ぎず、それまでに、彼の日常の中で、お母さんの逆鱗に触れる事が、一杯あったのだ。

「学校の呼び出し」から帰った彼のお母さんは、むかしの自身の「日記」を、息子に叩きつけた。

彼は、幼稚園の時に「入院」した時期があった。
その時、お母さんが、書いた「日記」だ。

後日、彼は、私に「この出来事」を話した。
そして、お母さんの「日記」を私に見せた。

誰かに見せるために書かれたものではない、その「日記」を私が目にすることに「大きな戸惑い」を感じたこと覚えている。

細かい字で、紙いっぱいに書かれている文章には、幼い頃の彼の「姿」が、愛情一杯に書かれていた。

今なら私も、同じ母親として、彼のお母さんの気持ちがわかる。
彼のお母さんは、よっぽど悔しかったのだと思う。

母親は、無意識に全身全霊をかけて、子どもを育てている。
一生懸命育ててきた息子に「裏切られたような気持ち」になったのだ。

高校生だった私は、彼に「気の利いた言葉」を、何一つ言ってあげれなかった。

・「母の怒り方」に対する彼の見解とは~

彼は、お母さんの「怒り方」について、よくこんなことを言っていた。

「勉強の事を怒りたければ、それだけ怒ればいいのに、生活が乱れてるとか、お酒やタバコやってるんじゃないの~とか、色々なことを全部、かき集めてきて、まとめて怒っていくから、イヤなんだよ!」

基本的に「良い子」だった私は、この発言に、
「あー、わかる、わかる~うちのお母さんもそうよ~~」
みたいな共感は、してあげられなかった。

ところが、自分が親になり、高校生の「娘」を怒っていた時、なぜか過去の彼の「この発言」が、突然、頭を横切り、「あ~、こうゆうことだったのか~!」と腑に落ちたことがあった。

・「母親の怒り」は、こうゆうこと~

母親は、我が子の日々の生活の中で「常に気になること」がある。
そのひとつ一つは、とても些細なこと。

だから、「今日は、怒らずに、過ごそう」と、様々なことに目をつむっている。怒ってばかりの毎日は、母親にとってつらいのだ。
でも、その怒りは、日に日にチャージされていく。

そして、チャージされた怒りがある日、些細なことで突然、「沸点」に達し、一気に日ごろの怒りが、沸き上がるのだ!

「腑に落ちた瞬間」私も、「娘」を怒っていた。

今なら「高校生の彼」に、お母さんの気持ちを解説してあげられるのに~

◆彼から渡された「二十歳の原点」


私の世代より、上の世代、いわゆる「学生運動」を経験した「団塊の世代」で、立命館大学の学生だった高野悦子さんの日記をまとめた3巻からなる「二十歳の原点」という本がある。

ある日、それを彼から渡された。
全3巻を彼から借りて、私は読んだ。

私たちの世代は「高度成長期」の真っただ中で育ち「戦後の貧しい日本」を知らない世代だ。
「赤軍の浅間山荘事件」は、小学生の時だった。

この高野悦子さんの世代と「私たちの世代」はちょっと違うけれど、大人になっていく高校生の自分たちにとって、当時「通過点」のように存在していた本だった。

彼とこの本について、どんなことを話したのかは、覚えていない。

「この本は読んでおくべきだから」と、渡して来たのかもしれない。
少なくとも、高校生の彼が、この本を読んだことは事実だ。

当時の彼の中に、何か「藻掻いていること」が、あったのだろうか。

無いわけがない!

私は、そう思ている。

10代は、楽しそうに見えるけれど「未熟な自分」と向き合わなければならない「苦しい時間」でもある

高校生にとっては、1年という長さが持つ「比重」は、大人とは違う。
ストップウォッチの絶対値では測れない「意味」が、その時間に発生するのが10代だ。

高校生だった私は、数年後にくる「二十歳」という年齢が、ものすごく「遠く」にあるように感じていた。

だから、自分が「二十歳」になる時を全く想像できなかった。

◆彼が口にした言葉

ある日、彼が「厭世」という言葉を口にした。

私は、「厭世観」という言葉を、この時、初めて知った。

今の10代の人たちは、どんな思いで生きているのだろう。
社会の変化はあるけれど、楽しいのかな~。

私たちが10代の頃、世の中は、今よりもっと「封建的」だった。
今のような「多様性」とか「自分らしさ」とかなかった。
最近よく耳にする「生きずらさ」という言葉さえなかった。

だから、こんな「大人の社会」に出ていくのは「イヤだ」と私は思っていたし、そういう「社会」そのものに対しても、嫌悪していた。
そんな「時代の中」で、私たちの前には「大人になる」という「大きな壁」のように立ちはだかっていた。


【浪人編】

高校を卒業後も、彼との付き合いは続いた。
私は、短大に進学し彼は「浪人生」となった。

◆確信した彼の「純粋な心」

私が、入学した学校は「カトリック・ミッションスクール」だった。
初めての「女子校」が、私は心地よかった。
そして毎日「お祈りの時間」があった。

日本人にとって、あまり馴染みのないキリスト教の「神」という存在を、シスターは「良心」という言葉で学生たちに話をした。「神」とは、どのような存在なのか、それを考えさせられる言葉が、毎日、私に投げかけられた。

そんな学生生活を送っていた私は、高校時代とは違う「模索」を始めていた。

6月の早朝、彼に呼び出されて、朝日の中を一緒に「散歩」をしたことがあった。

一緒に歩く彼に、こんなことを尋ねた。

「人間にとって『良心』って、なんだと思う?」

日々の中で「答え」を見つけられず「ドツボにハマっていた」私は、何か答えが欲しくて、この日、彼に何気なく尋ねた。

すると

「良心は、人間にとって絶対的なものでしょ。」と彼は答えた。

迷うことなく、当然のように、もともと知っていたかのように、即座に彼は答えた。

私は、不意を突かれたような気持ちになった。

「正解」かどうか、ということよりも、彼なりの『答え』を持っているということが、私を驚かせた。

「絶対的なもの…」彼の「迷いがない答え」に、この人は、私が探している何か「同じもの」を持っているのかもしれない…

そんな「期待」あるいは「安心」「信頼」…

何かは、わからなかったけれど大きな喜びを、驚きと共に感じたことを覚えている。

この時、私は彼の中に、何かキラっと光ったものをみたのだ。

しかしこの頃、この出来事とは裏はらに、彼に対して「距離」を感じるようになった。

何故かは分からないけれど、私たちの「関係性」は、高校時代の「無邪気な」ものとは、少しずつ変わっていった。

この人は私がみている方向とは「違うところをみている」「私から離れていく…」そう思う自分を、否定しながらも…、そんなことを感じていた。

◆受け止められなかった「彼の異変」

夏、学生だった私は夏休み、でも彼は「浪人生」なので関係ない。
しかも、彼は、予備校には行かず、「自宅」で勉強する「宅浪」だった。

この時代(1970年代後半)は、例えば、「イートインスペース」とか「フードコート」とか「スタバ」とか、こういう学生が「勉強に使えそうな場所」は、全く無かった。

頼みの「図書館」も、今より数も少なかったし、充実していなかった。
だから「宅浪」の彼は、ひたすら「自宅」で勉強していた。


彼の毎日は、そんな生活だったから、気分転換のためなのか、散歩がてら私の家によく来た。

もともと高校生の時から、彼は私の家によく来た。
だから、私の家族とも顔なじみだった。

この夏は、本当に、毎日の様にに来ていた。
そんな彼の精神状態は、日を追うごとに「疲弊」していった。

そして彼は、自分との「対話」を「ボイコット」するようになる。
この頃から、段々と彼から発される「言葉」に、私は憤慨するようになった。

そして「入試」に向かって、彼はどんどん変わっていく。

夏の終わりぐらいから、彼とまともな「対話」はできなくなっていた。

私たちの世代は、共通テスト(センター試験)が導入された初期の世代だ。「偏差値教育」の真っただ中にいた。

今もそうなのかもしれないけれど、ひたすら「決まった解答」を求められ、数字で全てが判断された。

彼は、そんな「社会の価値観」の中で苦しんでいるようだった。

だから、彼の発する言葉に憤慨しながらも、受験が終わるまでは… 
今が「特殊な状況」なのだから、私は待とうと思った。

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秋になると、彼は、勉強に集中していたから、会う機会は、確実に減った。それでも、連絡は取っていたし、会うこともあった。

でも会うたびに、私は「彼の豹変ぶり」に対し「憤り」を感じていた。

自宅で浪人生活をしている過酷な状況を思えば、彼の「豹変」は、仕方がなかったけれど、精神的に幼かった私は、受け止めることができなかった。

でも、彼の中にみた「純粋な輝き」を私は信じていた。

「今の彼」は好きじゃない。
だけど…受験が終われば・・・それまでは待とう。
そんな気持ちで、彼を見ていた。

*******

◆出来なくなってしまった「彼との対話」

年が明け、入試が迫ってくる。
彼の精神状態は、まともな感じではなかった。

こんな彼は、初めて。
彼ではないみたい。
人間ではないみたい。

私は、そこまで彼が「変わった」と感じていた。

本当に入試が迫ってくると、会う頻度も減り、高校時代のように毎日、話をすることもなかった。
だからこそ、久しぶりに会うと、彼の変貌ぶりをはっきりと認識してしまうのだ。

「社会の規範」にハメ込まれ、いつの間にか人格が変異してしまう様を、目のあたりにしている感じだった。

彼の口から発される言葉は「排他的」で、それまでと明らかに違っていた。

「社会の価値観に抗うことは意味が無いのだ」と、ただ「強がっている」ようにも見えた。

入試が終り、彼は「第一志望の大学に合格」した。

私の「憤り」と「葛藤」は、その後も止むことがなかった。

だけど「良心は、人にとって絶対的なもの」という彼の言葉は、私の中でいつまでも輝いていた。

この言葉に見えた「彼の輝き」を、私は心から信じていたし、そんな彼が好きだったのだ。

だからこそ、彼自身の「本来の心」を離れて、このまま大人になってしまうのではと、ハラハラしながら彼を見ていた。

高校時代、あんなに話す事があった彼との「対話」は全くできなくなっていた。
私には見当がつかない「風景」を、彼は見ているようだった。

この年の春、彼は晴れて「大学生」になった。そして、私たちは少しずつ「それぞれの道」を考え始めるようになった。

【二十歳編】

◆一緒に「大人」になれなかった。

大学生になった彼は、突然「バンド活動」を始めた。
そして、大学には通わなかった。

彼は、もともと「人前に出ることは好きなタイプ」だ。音楽も好きな人だった。

でも、何故??

私は、想定外すぎて「混乱」した。

あんなに苦しい浪人生活を送って、大学に行ったのに…
そして、何故、バンドなの??
そんなこと全然、言ってなかったじゃない~

この年の夏、彼とは、完全に話がかみ合わなくなっていた。

◆がっかりさせた「彼の言葉」

彼が、ものすごい勢いで「将来の夢」を追いかけていることが、心配だった。

何故、こんなに「急ぐ」のだろう。
何故、こんなに「焦っている」のだろう。

私は、彼のスピードに付いていかれなかった。
私は、すっかり置いてきぼりだった。

大学という場所で、ひとつの分野を専門的に学ぶ「機会」を手放している彼が、私には、とても残念だった。

「何のために大学に入ったの?」という私の問いに、

彼は、「合格するためだよ。」と答えた。

この言葉は、私を「心底」がっかりさせた。

◆苦いシーン

地元のライブハウスで「バンド活動」をしながら、彼のバンドが、ロックコンテストに出場することになった。とはいえ、そう簡単にグランプリが取れるわけではない。それでも「ファン」は付くのだ。当然「女の子」のファンだ。

コンテストに出場すると聞いて、私は、会場まで観に行った。

「なんで、行っちゃったのだろう~」今となっては、そう思う。

コンテストが終り、私は彼の所に行った。

彼の周りには、沢山の人がいた。

私と「目が合った」彼は、一瞬、私を見て表情一つ変えることはなかった。

私は、声をかけることが出来なかった。
もはや、私は、彼の前に「いない存在」だった。

「ファン」と思われる女の子が、彼の横に「ぴったり」と立っていた。

その彼の姿に「こんな人だったけ~??」私は「完全」にがっかりしてしまった。

だけど、この目の前の彼が「今の彼なのだ」と認めるしかなかった。

「純粋さ」を求めてしまったら、「力」を失ってしまうと勘違いしている~
見せかけの華やかさの中で、彼の本当の輝きが、失われている~

私には、そうとしか思えなかった。


彼には「彼の考え」があったと思う。
でも、それを「二番目の私」と分かち合うことはなかった。

少しずつ変わっていった彼を見てきて、それでも高校時代から「私の中にいる彼」をどこかで信じていて、諦められずにきたけれど…

目の前の現実を、受け入れるしかなかった。

私が行きたくない「世界」に彼は行ってしまった。

この「苦いシーン」を思い返しながら、

私の中で「一つの決心」が生まれた。

「もう、彼を待つのは、や~めた!」

四季の変化と共に風景が変わるように、私たちも「季節」が変わって、二人の関係性がこの出来事で変わった。

一緒にいることが「自然なこと」では、なくなった。

この「苦い出来事」は、若かったせいか「傷ついた」という感覚は無かった。

私たちは、将来について何も約束をしていなかったからかもしれない。

まだ、二人とも若かったから、ずっと一緒にいて、お互いに「離れてみたくなった」のかもしれない。


◆ 最後の春休み

秋以降、彼とは全く連絡を取ることはなかった。

「別れる」とかそういう区切りが、あったわけではない。

確実に言えたのは、少なくとも彼の事で、悩まなくてよかった。

この時期、私は自由だった。

私は、周りの友達が「就職活動」をする中、進路に結論を出せず、ウダウダしていた。

大人になる寸前で、自分の心が固まらなかった。

当時「女性の生き方」は多様性に乏しかった。
社会に出るということは「何かを諦めること」に思えた。

1月の卒業試験が終わり、3月の卒業式まで、私にとって最後の長い「春休み」だった。

◆卒業後の彼との「再会」

彼から連絡が来て、久しぶりに会ったのは、短大卒業して半年以上経った頃だった。

実は~この年に、私は彼ではない人と結婚をした。

大反対の末に「大きな覚悟」を持って「結婚」という人生の進路を選んだ訳だけれど、彼と久しぶりに会ったのは、まだ親から反対されるなんて全く想像していない時期だった。

だから彼からしたら、私は「有頂天」に見えたと思う。

私は、自分の話ばかりで、この日、彼の話を聞いた記憶は無い。

「大学はどうしているの?」
「バンドは、まだ続けているの?」

こんな質問をしてもよかったのかもしれない。

でも、そんなことは、私の中で完全に「終わっている事」だった。

私たちは、地下鉄に乗って途中まで一緒に帰った。
どこの駅で別れたのか、よく覚えていない。

結婚前に彼と会ったのは、これが最後だった。

◆ 本当のお別れ


数日後、彼から電話が来た。

彼のお母さんが「私と話したい」とのことだった。

彼がお母さんと電話をかわり、私の結婚に対して「おめでとう」そして「幸せになってください」と言ってくれた事を今でも、はっきり覚えている。

当時、私は本当に幼かった。
だから「ありがとうございます」の言葉以外、何も言えなかった。

一緒にいることが当たり前だった彼との関係は、ここで完全に終わった。

その後、いろんな出来事を通じ、新たなステージで繋がったけれど「無邪気な対話」をすることは二度となかった。

【後編】へと続く



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