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16.最後の晩餐は餃子で

転院先は脊髄の病気を専門にしている宇都宮の病院を選んだ。とにかく希少な病気ということもあって、有名な大学病院ですら年間数人程しか手術がない。そうであれば少しでも手術経験の多い先生にお願いしたいと考えた。

入院して翌日には手術の予定になっていた。その夜、術後に歩けなくなるかもしれないなぁ〜とぼんやり考えていた。でもこのときは術後のリハビリで回復できるものだと信じていた。杖は使っても全く歩けないなんて…。

どこの医師も同じではっきりとは言わない。…かもしれない的な表現が多かった。もちろん私への配慮だとは思うが、私は都合の良いように考える所があるようだ。

よくテレビで「生存率は何パーセントですか?」なんていうドラマを観たことはあるが、治ると信じている私にそんな発想はなかった。

そして翌日手術は行われた。13時間という非常に長い手術となった。とは言っても当の本人は眠っているので1時間でも13時間でも同じことだ。

病室で目が覚めると家族が集まり「よく頑張ったね」と声を掛けてくれた。しかし、頑張ったのは先生で、私は寝て起きたくらいの感覚だった。結局、私の体力などもあり腫瘍は半分しか摘出できなかった。

術後真っ先に足を動かしてみた。しかし足どころか足の指すらピクリとも動かない。頭からは足の指をぐーっと握ぎろうと指令を送る。しかし脳と体が別物なのだ。例えば耳を動かせない人であれば、耳に一生懸命力を入れても動かない。そんな感じに似ているかもしれない。

それでも先生からは神経は残しているのでだんだん回復してくるはずですと言われた。それから2,3日経っても私の足は一向に回復してこなかった。ベッドに横たわり寝返り一つできない。早くリハビリを始めなくて大丈夫なのかと気は焦るばかりだった。

数日後生検の結果が出た。一度目の手術の時は良性だったのでもちろん良性だと思っていた。しかし先生から伝えられた言葉は悪性。心臓が一気に高鳴り始め、不安に押しつぶされそうになった。悪性となれば生死に関わる。残りの腫瘍をどうするかが問題になってくる。すでに歩ける歩けないの問題ではなくなっていた。

そして二つの提案が出された。

 1.残りの腫瘍の摘出手術
 2.陽子線治療

確実に治すのであれば摘出手術なのだろうが、どちらを選択しても下肢の機能は失うことが分かった。しかしこの時、もう一度頑張れる気力が私には残っていなかった。

「もう手術はしたくない。」

と力のない声でこれしか言えなかった。だんだん体の機能を失っていく恐怖に疲れ切っていたのだ。ついに命の危険にまでたどり着いてしまった。

家族も気力をなくした私を見て、これ以上手術を進められなかったのだと思う。そこで先進医療の陽子線治療をすることに決めた。陽子線治療は放射線治療のように患部に照射するだけなので、体への負担は少なく済む。

とうとう歩けなくなるのかぁ〜と思いながら、病気への怖さと歩けなくなる悲しさで、涙が溢れて止まらなかった。

宇都宮最後の夜、涙をすすりながら宇都宮名物〝みんみんの焼き餃子〟を食べた。病院食が続き食での癒しなんてすっかり忘れていたが、家庭料理の餃子が私の心に癒しをくれた。

そして翌朝、転院先の福島へと向かったのだ。

17話目に続く…


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