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森を歩く〜日々与えられているもの〜

夜明けは特別です。森で暮らしていたころ、毎日、朝が待ち遠しくて仕方ありませんでした。目覚めるとすぐに外へ飛び出し、森を自由に歩きました。同じ道でも毎日新しく、踏みしめる一歩一歩は新鮮な驚きと感動に溢れていました。

日々せわしなく働き、勤務時間ぎりぎりまでお布団にくるまっていた以前の生活とはかけ離れた暮らし。すっかり自然に魅了され、もう以前のような生活に戻ることは到底できないように感じます。それほど、美しい朝を歩くことは何物にも代えがたい時間でした。心思うまま、好きなだけ道草をして圧倒的な自然のなかを自由に歩く。それはきっと、自分の体の内側からずっと求めていた時間でした。そんな生活を始めて2年目のある日のこと。

「見て見て!とても素敵な本なの!」
友人が図書館からかりてきた本。それが、ヘンリー・ソロー『歩く』(山口晃 編・訳、ポプラ社)との出逢いでした。

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この本は、こんな素敵な言葉からはじまっています。

私は今を生きています。過去は記憶し、未来は予期するだけです。生きることを愛しています。

どうしてこの言葉は、こんなにも深くこころを揺さぶるのでしょう?

「生きることを愛しています」

私も声高らかに、堂々と、そう言えるようになりたい。この本を手に取ったとき、そんな風に強く思ったことを今でもよく覚えています。ある日ソローは雄鶏の鳴き声を聴きました。そしてそのとき感じたことをこの本のなかでこう綴っています。

この鳥の歌の素晴らしいところは、悲しみや沈んだ様子がまったくないことです。歌手は私たちを容易に涙や笑いへと連れていくことができます。しかし朝の純粋な喜びを私たちに喚起できる者はどこにいるでしょうか。日曜日、悲しい憂鬱な気分の中、不気味なほど静まりかえった木道をきしませながら歩いているときや、死者の出た家で通夜をしているときなど、どこからともなく若いオンドリがときをつくるのを聞くなら、「とにかく仲間のひとりは元気なのだ」と私はひとり考えます。そして突然、感動して、はっと我にかえるのです。

この本は、「世間の約束ごとから完全に解放されて」野原を、森を、庭を自由に歩きまわることの素晴らしさをひしひしと感じさせてくれます。本当にソローの言うとおりなのです。圧倒的な自然のなかに身をひたす、その時間の恩恵は計り知れないものです。

自然がもたらしてくれる本当の調和は、夜が昼にたいし、冬が夏にたいし、思想が経験にたいして保つ釣りあいにあるのです。そうすれば私たちの思想はますます大気にふれ、日光が差すものになるでしょう。

ソローはこの本の終わりに、11月のある日の日没の様子を綴りました。

私たちは枯れ草と葉を黄金色に輝かせている、とても純粋な光の中を歩きました。とても柔らかくのどかな輝き、さざ波もざわめきもないこのような黄金色の洪水の中に身を浸したことはありませんでした。全ての森と丘の西側は、楽園(エーリュシオン)の国境(くにざかい)のように輝いていました。(中略)だから私たちは「聖なる地」に向かってさすらうのです。いつか太陽がこれまでなかったほど明るく輝き、私たちの精神と心に光を当てるまで。秋の土手に差すのと同じくらい温かく麗らかな光が、黄金色の素晴らしい覚醒の光が、私たちの生命全体を照らし出してくれるまで。

昨年の夏のことでした。私はとても落ち込んでいて、眠れない夜を過ごしました。翌朝、私は自分のちいさな畑ガーデンへ重たい気持ちのまま向かいました。

いつものように裸足になって、私は歩き始めました。鳥たちはすでに元気よく歌いながら空を舞い、植物たちは朝露にしっとりと濡れていました。踏みしめる一歩一歩が足の裏に心地よく響き、あたりは夏の清々しい空気に満ちていました。

ちょうど畑ガーデンの真ん中に立ったとき、朝日が少しずつ山の向こうから昇ってきました。朝顔、マリーゴールド、とうもろこし、きゅうり、アマランサス、かぼちゃ、ねこじゃらし…私の目の前にいたみんなが一斉に輝き始めました。言葉にならない感動が全身を貫き、私はそれまでの物思いをすっかり忘れ、その光景にじっと魅入っていました。

そしてそのとき気づいたのです。おひさまのひかり、ちいさな新芽、鳥の歌声、季節の花々…、日々与えられているもののおおきさに。そしてソローが11月の日没に見たような光景が、毎日のように私たちを訪れ、励まし、導いてくれていることに。

1862年、ソローが30代の若さで亡くなる直前に書かれたこの「歩く」というエッセイは、今の時代にも新鮮な輝きを放っています。何度も何度も、開きたくなる本です。原本のWalkingは、無料で公開されていて、誰でもいつでも読むことができます。

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