新六郷物語 第九章 一

 純平と佐和が京から戻って四年が経った。天正十四年の正月一日、純平は佐和と話し合って、八軒の小作人たちを集めた。年末までに、年間の小作料として米を納付する約束があった。それはもう終っていた。地主が耕作しない土地を耕作人に貸与して、賃料をとる契約であった。吉弘雅朋家は小作人に優しい家であった。純平は小作人たちを前に、今年から小作契約を解除すると宣言した。小作料は納めなくて良い。いま耕作している土地は自由にして良い。ただ、出て行かないで欲しいし、収穫した一部でいいから、これからできる浄周山純和寺に喜捨して貰いたい。喜捨は強制ではない。        「嘘だろう、正月そうそう、嘘は言わないでくれよ」
「ただで土地をくれるなんて話は聞いたことがないぞ」
 純平は懇々と説明した。六坊家は食べるだけあればいい。この別宅に帰って来た時は、何も余裕がなく、人もたくさん集り必死だった。薪を取り蕎麦を植え、蕪を植えた。拓けるところは田にして来た。六坊家としては、小作料を当てにしなくても何とかやっていける目処がたった。土地は本来耕作する者のためにあるべきだし、その方が土地のために良い。だから土地を大事にして欲しい。それが最大の願いだ。米を作った後には麦を植えるとか、大根や他の野菜を作るなど、いろんな工夫をして欲しい。その経験を持ち寄り、協力しあって皆で豊かになろう。そのために小作契約を止める」
 小作人たちは呆気に取られた顔をして純平を見ている。
 「主人は、嘘は申しません。何かご不満がありますか」
 佐和が笑顔で話をした。
 「ありがとうございます。いままで以上に精を出して米を作り野菜も作ります。収穫しましたら、必ず浄峰様に喜捨させて頂きます。いまのままでも十分ありがたいことです。吉弘雅朋家も六坊家も、小作人としてこれほどありがたい地主様はおりません。地代のみならず、家の修繕にも力を貸してくださる。その上、蕎麦の作り方、大根や野菜の漬物の作り方を教えていただきました。私どもの暮らしは楽になりなりました。皆、六坊家あってのことです。これだけでも十分です。その上、無償で土地を譲って下さるとは、いいのでしょうか。私どもは素直に受けて良いのでしょうか」
 「いいのですよ。でもこれでお付き合いが終るのではなくて、これからも色々教えて下さい。富美さんの梅干は絶品です。あのように出来るのはどうしたらいいのか。一度や二度教えて貰ってもわかりません」
 天正十四年秋、行雲が六坊家に落ち着いて一年過ぎた頃、また予測もしない嬉しい人が、六坊純平を訪ねて来た。別人を一人連れての来訪であった。
 純平の、最初の剣の師匠、高橋玄吾であった。千燈寺を去るときは、山伏姿であったが、頭を剃り僧形となって戻ってきた。
 高橋玄吾は千燈寺を去った後、府内に入り、父の旧主家大友館を見た。平地に大きな囲いを持った屋敷で、城ではなかった。府内は町中に南蛮人が歩き、バテレンの教会と言う名の寺が建っていた。また治療院も見た。その後、いまは立花道雪、旧名戸次道雪の地元、戸次を通り、一萬田の故郷に行った。先祖の墓参をした。阿蘇から菊池氏の地元を見て、熊本から五家荘に行き、そこから高千穂、椎葉と山中を巡った。七つ山というところに一年ほどいた。数軒しかない他所から隔絶された集落なのに、つい地元の人の暖かさに甘えて、修業の身であることを失念してしまった。自然の中で人が生きる厳しさ豊かさを学んだ。いい経験でもあり楽しかった。
 我に戻って旅に出た。険しい山を越え、滝に打たれても、修験者の道は己だけの道に思えてならなかった。行く先々で人々の世話になるが、何のお返しもできない。祈祷をしても気休めにしかならない。千燈寺で修行中から心の隅にあったが、仏門に入り経典を勉強し仏法をもっと詳しく学ぶことが、自分自身に対しても素直に生きられるように思った。八代を過ぎ人吉について決断した。自分で頭を丸め、宿を借りたお寺の小僧さんに手伝ってもらってきれいにした。玄信となった。新千燈寺に戻ってもう一度修業する。そう決めて、米良、妻、飫肥と廻り、伊東氏の地元を見て北上した。日向、延岡、佐伯に入り、千燈寺が焼き討ちされてなくなったことを知ったが、とりあえず戻ろうと思い、津久見、臼杵、鶴崎と辿って来た。 
 日豊路を北上する際、島津が耳川の戦いで勝った後、延岡まで完全に島津の支配が行届き、いつ豊後に攻め込んで行くか。その時を待っているように感じた。おそらく軍事に関しては、いまや人材のみならず、人員の数も島津が圧倒している。その上、大友には軍を動かせる人がいない。立花道雪殿は筑前から動けない。もし何か動けば一気に攻めあがる体勢が整っている。大友家は内情がすでに滅亡に向かっている。高橋玄吾、いまは玄信であるが、純平にそう考えを述べた。

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