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肩書に飢える人

○○講座認定講師、○○協会認定インストラクター……。

なんだか肩書が増えすぎて、何が何だかわからない状況になっているのは私だけでしょうか?

SEO記事を書くときに良く思うのですが、本心いえば「その肩書いる?」みたいなことが良くあります。

肩書は実績と同じように、ある程度の信頼性を出せる……とは思いますが、個人的にはもう昔の話ではないかと思うことが多々あります。


数年前に亡くなった祖父は、私が大学に合格した時に「末は博士か大臣か、やな」と申しておりました。

結局どちらにもなっていないんですが、その言葉が示す通り、昔の大学は研究するところ・偉い人になるための登竜門的なイメージです。

ところが、まあ私が大学に行っていたころからそうですが、大学と名の付く資格取得の専門学校みたいな感じになっていたと思います。

私は大学在学中になんの資格も取りませんでしたが、同級生もいくつかの資格を取得していました。

妻も同じで、図書館司書と学芸員の資格を持っています。

で、その理由をきいたら「なんかあったときに便利だから」とのこと。

まあ、そうなんだけど、じゃあその「なんか」って何?

その「なんか」はいつ来るの?

なんて思ってしまったわけです。

そしてネットの世界に飛び込んだり異業種交流会に参加したりして、ますます「それいる?」みたいな状況になったのを覚えています。


結局、その肩書って本当にいるんでしょうか?

資格の話に飛んでしまいましたが、肩書も同じようにどんどん増えていっているように感じます。

まあ持っていれば何かの時に役立つとは思うんですが、そのなにかに直面する機会っていつなんでしょうね?

個人的には日本人特有のムラ社会的考え方のひとつだと思っています。仲間はずれが怖いって感じですかね。

「○○講師」「○○インストラクター」という権威性とその仲間がいることの安心感です。


これは主催者(資格を付与する側)がどうこうというより、取得する側の問題点だと思っています。

何人もこういう講師養成をされている方とお話しましたが、少なくともご自身のご経験や思いを持っている素敵な方々でした。

しかし、受講生側はそんなことわかってないとおもいます。

ただ単に「修了したら肩書が増える」みたいな……。

肩書が増えても「そいつはスゲーや」にしかならないですし、結局あなたは何者なの?という疑問が残るだけ。

主催者の想いや方針に十分共感と納得を得てからでないと、肩書を持っていてもうまくいかせないと思いますよ。

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