平和社会学の講座を終えて~「考えさせるには難しすぎる」中高生が積極的平和について考える意味-3/3

高校生S

―では、なぜそれらの問題は“考えなければならない”とされ、現にここに学問が存在しているのだろうか。このことはまったくのステレオタイプな「高校生」が答えるには勉強不足が過ぎるかもしれない。しかし、あえて言葉を綴ろうと思う。(-2により抜粋)―

「考えさせるには難しすぎる」高校生が平和を考えることは、今まで上げてきたように大人のそれにも増して小さな小さなことだ。しかし、システム思考が語るように、それらの小さな変化はいつか予期せぬ大きなフィードバックとなって帰ってくる。社会とは、小さな小さな人々の集団であり、社会それ自身の構成要素である人々に変化があれば、それは社会の変化となってフィードバックされる。社会をどのように作り変えるのも人々だ。ナチスの独裁が始まったのも、全斗煥の独裁を終わらせたのも。そして、「考えさせるには難しすぎる」中学生が考えていたことは、果たして無駄だったのだろうか。自分はそんなことはないと思う。現に、この文章の大部分はステレオタイプな「中学生」の時分の考え、学びを土台にしている。社会が小さな小さな人々の集団であるように、私たち自身も小さな小さな思いの集まりなのだ。その時点では「考えさせるには難しすぎる」内容かもしれない。しかし、それらは小さな小さな思いとして私たちの中に集まって行く。私たちそれ自身の構成要素である思いが、人生のうちになにかの変化となった時、それらは大きな変化として私たちにフィードバックが帰ってくる。その時が考えることが意味を持つときであり、それが社会へフィードバックされた時が平和について考えるこのと、ひいては平和社会学の意味を持つ時だと考える。果たしてそれは、広義の人間社会の構成要素があまりにも膨大な故に、今の時点ではやってきていない。そしてそれがやってくることは恐らく未来永劫ないだろう。しかし、その思いが集まっていく道程で、人々の思いは確実に平和へと前進する。それが平和への一番の処方箋なのではないだろうか。

この選択授業の講座の中でも、内容について行けず別のことをしている生徒や居眠りをしている生徒がいることは事実だ。しかし、彼彼女らがどのような意見を持つのかなど今はわからない。そして、それについて考えている生徒もまたいる。今目の前で、話を聞ける状態でない生徒たちと平和を考えることは無駄なのだろうか?平和について考えることが、考えたその時から平和につながることが求められるような即時的なものになり下がり、無理であると一蹴され、後に予期せぬ巨大なフィードバックに踊らされることのない形であることを切に願い、この文章の結びと代えさせていただく。

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