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歩道橋の上で

飲酒した夜、コーヒーを片手に数駅分歩くのが好きだ。夏ならアイス、冬ならホット、コンビニの味と値段がちょうどいい。「珈琲」ではなく「コーヒー」であるのがちょうどいい。

かつおの刺身が美味しかったなとか、上手く話せなかった気持ちのことを考える。酔ってるから深くものを考えるのはむずかしいのだけど、アスファルトを踏むたびに緩んだ頭が少しずつ固められていくことを期待する。ささやかで贅沢な時間が別の酔いを補充するみたいだ。こういうのをダウンタイムというのだろうか。酒の後のコーヒーは新鮮に苦く、ほどよい刺激と余韻を同時にくれる。街がいつもより寛容に見える。

僕が住んでいる街は深夜に近い時間でもそこそこ人がいる。僕は前後の人の距離が気になったり、自転車の通路の確保に神経を遣ったりする。一人にはなれそうでなれない。暑いのでマスクを下げても、すれ違う人の不安を予期してまた上げる。酒の勢いを借りてもまだ息苦しさを感じるのだ。なんて臆病な人間なのだろう。

そんな自分がゆっくりと呼吸できる場所を発見した。歩道橋の上だ。誰も急いでいない深夜に歩道橋を渡る人は少ない。僕は橋のちょうど真ん中まで行ったところでコーヒーと肘を置く。下流へと滑っていく自動車のランプを見つめて、谷の上を見る。当たり前なのだがいつもより空が広く、小さいビルは可愛くすら見える。空気が綺麗とは全然言えないけれど、開放感が呼吸を広くさせる。肺があるなぁ、なんて普通のことを思う。

歩道橋は本当に人が上がってこないので、マスクをする必要は無い。法令が許すなら煙草を吸ってもいいし、缶チューハイを飲んでもいい。もちろんアイスを食べてもいい!好きなだけこんなくだらないnoteも書ける。

くだらないことを産まれたてのまま誰かに伝えるのがどうもむずかしいよな、と最近よく考えた。それは僕がインターネットという公共の場に放とうとしているから仕方の無いことではある。だとしても、このいつでも見えないところからエアガンで撃たれそうな不安は余計なものだと思う。暴力が暴力として賢明に弁別されることを願ってならない。誰しもエアガンを撃つべきではないし、失明するべきではないのだ。仕事柄、僕もいくらか世界に作用できると信じて、今日はこんなピチピチのくだらない笹舟を世田谷通りの下流に流します。

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