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ロシアのウクライナ侵攻から僕が感じた「生きる」こと

ロシアによるウクライナへの武力侵攻について、国際社会と同様に僕もロシアを強く非難したい。また、一刻も早い平和を願っている。ただの私的な感想文であるが、「ただの感じた想いを文にすること」が自分にとって大変に大事だと思われたので、少し輪郭を持たせることにする。それは詩人としての態度でもある。同時にコスモポリタンとしての責任を果たそうという背伸びした願いがある。

(概要を把握するのに最も役に立った動画)

2つの鈍い衝撃

ロシアという大国による大規模な軍事行為。その論理や行為はことごとく国際社会から非難にあっている。ここまで「悪である」と判断しやすい戦争は世論をSNSやメディアから通して見るに、近年無かったのではないか(「悪」であると安易に断定することへの懐疑心も大事では、というスピーチへの批判の連打すらある)。そして日本人にとって容易に相似的に日本が攻められうると考えられる戦争であることが、何よりショッキングなのではないか。あくまで僕はそう感じている。この「圧倒的悪感」と「他人事ではない感」。2つの大きな鉛球が僕に鈍く重く響くのだ。
リアルタイムで流れるSNSの情報や現地人(らしき人)のブログも生々しく、どんどんと流れる情報の川は、触れ過ぎると気が触れそうなほどの水量だ。

生きることの選択

ゼレンスキー大統領の各国議会への演説はその国の文化や歴史、国民性を的確に捉えつつ端的に要求を表現する名演説だと思われる。特に英議会での演説は極限的に生きる選択をするウクライナの人々の崇高な決意を感じるものだった。

「生きるべきか、死ぬべきか」、命の最大の問いにウクライナの人々は曝されている。理不尽な暴力に現代の人間はどう抗うのか、ということに関心があった。

返事は明らかに「生きるべき」です。
明らかに、自由であるべきです。

ゼレンスキー大統領は英イギリス議会でのオンライン演説(3/8)より一部

これは確かに文学的な表現と帰結なのかもしれない。現実としてロシアの軍事力は強大だ。しかし、自分の国と家族と自らの存在の危機で「戦わないことを選択すること」は「生きることではない」のだ。これは生物的な生命の話ではなく、人間としての生命の話だ。本当に生きるとはという問いに対する回答だ。

「戦争は単に人間が亡くなるか否かだけではなくて、国家やその国民である自分の存在をかけた戦いです。そういった意味で、戦争の本質は文学的であるといえる。そもそも文学には戦争を扱ったものが多いですよね。
 ゼレンスキー大統領がシェイクスピアを引用したのは、イギリス人になじみのある英文学でイギリス国民にアピールしたかったから、という見方ももちろんできます。しかしあの言葉はそういった“狙い”を超えて、戦争の本質を突いていました。
 ウクライナはこれ以上ないほど最悪な状況です。その渦中の最高責任者が悩んで出した答えが、『自分の生きる道はここに残って戦うこと』だった。イギリス人は感動し、そして腹落ちしたことでしょう。彼らはいま、自分たちの存在をかけて“生きるために”戦っているんだ、と」

「戦争の本質は文学的」「降伏はジェノサイドの危険性を孕んでいる」日本人に“降伏論者”が多いワケと見逃されている《恐るべき代償》 | 文春オンライン

逃げ出したいだろう。どれほど崇高な決意でも死への恐怖は消えないだろう。だがウクライナの人々は最大限「生きる」ことをしている。命から自由を奪い闇雲に捨てるわけではない(避難や外交努力ももちろんしている)。ウクライナの人々の切実な態度から僕は「人間として生きるとはどういうことか」というのを、どんな教科書より肉薄して知った。

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり

「葉隠」(江戸時代中期に書かれた書物)

日本でも江戸時代の武士がこの有名な言葉を遺している。これは死ぬための言葉ではなく生きるための言葉だ。太平洋戦争中の玉砕や自決の時に使われたことから、ある目的のためなら死をも厭わない、という解釈をされることがあるがそれは誤りである(Wikipediaに解説の項がある)。武士として「死ぬ覚悟を持って生きろ」ということで、よく生きるための言葉なのだ。
極限の「生きる」という選択が現在起きていて、全く他人事ではない。ウクライナの人々の悲壮かつ勇敢な態度に、僕はただ心を震わせた。そしてせめてもの自分への誠実な態度として、いまこの文章を書いている。

自分ができること

ひとまず少額ながら募金をした。実際的な行動を1つはしたかった。

あとは自分を圧迫しすぎない程度にニュースを追って、咀嚼している。何か自分の中に還元できるものはないか、さらにできることはないかと根気強く考えている。開戦当初から文章を書いて自分なりの考えを浅薄だろうと表明することが、この時代で同じ世界で生きる人間として善いことだ直観するところがあった。だが少し時間が経ってしまった。それは間違った情報を拡散させるのではとか、立場を明確にすることへの不安があったからだと思う。気分的に抑圧されてしまっていた。ウクライナの人々の「生きる」に感銘を受けた人間とは思えない卑小さだった。それを許せないので、僕ができるわずかなこととしてこの文章をしたためた。他の人ならただ一言「#StandUpForUkraine」とツイートするだけでも良いと思う。いずれにせよ、世界市民としてこの残虐な行為に対して自分なりに考え、血肉へと変換し、余裕があれば実際の援助をおこなうことが大切だと思う。自分なりの「生きる」ことをこれからもやっていきたい。

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