僕がウィル・スミスだったら殴れたか

殴れていないだろうと思う。彼ほどの影響力があって、世界でも名誉あるアカデミー賞の授賞式で、私的な理由で抗議する、そんなことは仮に僕がウィル・スミスと同じ境遇でもできなかっただろう。できたとしても、一度「That's OK.」と受け流し、激しく後悔をしながら家に帰って抗議文をしたためるくらいだろう。

あまりにも驚きの強い画だった。「何が起こったんだ」と多くの人が持つのと同じ好奇心で、背景の説明や授賞後のスピーチについてのニュースを読んだ。彼は円形脱毛症に悩む愛する妻をネタにされ、怒りを抑えず(抑えきれず)その場で平手打ちをした。愛ゆえのシンプルな怒りで、帰結は暴力だった。そのシンプルさが、僕の心を大きく振動させた。彼の平手打ちがとても綺麗な動作でおこなわれたことが今回のショッキングさを際立てているが、そこは掘り下げないでおこうと思う。

イジることは暴力だ

「ネタにする」「イジる」という行為は、子どもから大人まで幅広く濫用されている。「面白くする」という一点の正義を盾に濫用される。基本的に被る側の同意は無い。自らが自らをイジるのであれば自虐となり、加害者と被害者が一致するので同意は問題にならないし、程度がコントロールできる。そうでない「イジり」は他虐であり、非常にデリケートで、成立させるには高等なテクニックが必要だ。プロ野球選手が150km/hの球を打ち返しホームランにするようなことである。そんな芸当を無思慮に再現をしようとするのが素人の「イジり」である。

ただ「イジり」が成立する場合がある。それは不幸にある人が救われる唯一の道である場合だ。つまり正義が完全に相手のためになるときだ。「笑い」は様々な状況に偏在する救いである。容姿による不幸を容姿による笑いで、真逆の方向に持ち出す。渋い顔を笑顔に変える。ただその一点の合目的性において、「イジり」は正義として成立する。

深刻で延々と続く不幸の場合、きわめて強い羞恥心が不平を述べ立てることを押し留めてしまう。こうして、人間における不幸の条件のひとつひとつが沈黙のゾーンを作ってしまい、あたかも島のなかにいるように、人間はそこに閉じ込められてしまう。島を出る人は振り返らない。

「工場生活の経験」シモーヌ・ヴェイユ 著  今村純子 訳

不幸はブラックホールのように人間を吸い込み、無限に時間を伸ばし、精神を停止させる。そこから手を掴み、救い出すためにだけ、美しく暴力は成立する。

今回のクリス・ロックの「イジり」はもちろんしっかりと美しくない他虐だった。

平手打ちの代わりとなる言葉

精神の暴力に対し、身体の暴力で対抗するのは、もはや戦争だ。その暴力に純粋な正義があったとしても、それは戦争となる。むしろ純粋さこそが戦争を生むのかもしれない。ウィル・スミスは平手打ちという暴力で対抗したという点のみが批判されるべきである。僕が仮にウィル・スミスで、仮に平手打ちをしないとしたら、壇上へ向かい、何をするだろうかと考えた。おそらくマイクをもらい、こんなスピーチをするだろう。

列席のみなさん、関係者のみなさん、映像でご覧のみなさん、この神聖な場を私的な理由で止めることをお許しください。
私は、最愛の妻が目の前で侮辱されたことに怒りを感じています。自らの寛容さでは受け止められないほどの怒りが、私をここで話させています。私の妻は「なんのために私が」と思うような、無為な不幸に深く傷ついていました。
彼は、彼女のその永遠にも思われる不幸を、いっときの麻薬のような「ジョーク」で刺したのです。精神の傷を抉ったのです。
覆いかぶさる不幸で動けなくなった彼女を守るため、私は抗議します。私たちが有名人であっても、多くの人が一瞬笑顔になるとしても、あとでTwitterに山ほど悪口を書かれても、許してはいけない暴力があります。自分の想像力を過信するのはやめましょう。誰かの心は、あなたの心は、決してジョークではありません。

彼が自分自身に課した誠実さへの態度は、僕にとって本当に感心するものだった。その後のスピーチでも触れられた、彼の生きることに対する徹底された反応だった。

「ドライブ・マイ・カー」で描かれる不幸への寄り添いかた

ここからは蛇足で「ドライブ・マイ・カー」のネタバレを含みます。
今回のエントリで書いた不幸の話に関連して、アカデミー賞国際長編映画賞を授賞された「ドライブ・マイ・カー」の好きなシーンを備忘録として書いておきたい。

広島から北海道に向かう夜の車中、家福が妻である音が死んだ夜について語り出すシーン。家福は、もっと早く帰っていたら妻は死ななかったのでは、という想いから、自分が妻を殺したような気持ちになっていた。その家福に呼応するように、渡利がいつもどおり真っ直ぐ前を見て運転しながら「私、母を殺したんです」と語り出す。そして、家が倒壊してその中に母がいるとわかっていながらも見殺しにしてしまったことを明かす。

渡利
「(中略)この頬の傷は、その事故の時に付いたものです。手術をすればもっと目立たなくできると言われました。でも、消す気になりません」

家福
「もしも僕が君の父親だったら、君の肩を抱いて言ってやりたい。君のせいじゃない、君は何も悪くない、って」
「でも言えない。君は母を殺し、僕は妻を殺した」

渡利
「はい」

こんなにも美しい「はい」がこの世にあるのかと感嘆した。偶然である不幸、全く動機が無いゆえに救いの無い強力な不幸を浴び続けた二人が、「大事な人を殺した(ことにする)」という共通の罪を認め合う。もし父親であれば、「君のせいじゃない」と正しい否定をして、その後も続くであろう不幸から彼女を庇い続けることができるだろう。けれど、彼らは全くの他人なのだ。同じ車に乗り合わせただけの他人だ。だが他人という遠い距離においても、不幸に対する距離だけは同じくらい近かった。
愛する人を失った不幸に対する原因を、罪を、自らに与える。それは初めて不幸に与えられる目的性だった。もちろん直接的に殺してはいないのだが、不幸の理由をつくるために自分が殺したことにするのだ。罪は償いへの出発点として希望になりうる。この渡利の「はい」はたった二文字で表す最大限の共感である。不幸に最接近して今にも停止しそうな二人が、罪を創作し、共感により認め合い、不幸とは反対の方向に進み始める。その合図としての「はい」なのだ。その後、車はさらに北へと進んでいくが、車内に押し留められていた二人の人間性という車は、すでに進む方向を変えていたのである。

不幸を距離としてじっと見つめるのでなければ、不幸の存在を受け入れることはできない。

「神への愛と不幸」シモーヌ・ヴェイユ 著  今村純子 訳

「ドライブ・マイ・カー」はこんな理屈っぽく解釈しなくても良いところがたくさんある映画だ。観る度に発見がありそうだという、真に良い映画だと思う。大好きだ。大切にします。


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