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小樽新聞 大正13(1924)年12月28日 日曜日 その1

では、この大爆発の状況を翌日の小樽新聞から読みとってみる。
なお、( )内に「漢字の読み」や「説明」を加えた。
また、記事は大正時代の文体であるため、わかりやすい表現に変えている。

小樽港内のはしけ船にて

 火薬爆発の一大事
    多数のはしけ船は粉々に砕け散った
      死傷者数え切れず
 27日午後1時27分小樽市手宮高架桟橋付近で衝撃的な大音響を発して爆発が起き、同時に全市3万戸の家屋に一大振動を与え、二階が落ちたり、窓硝子を破られたなど、被害は全市におよんだ。市民は皆、屋外に飛出した。
 これは25日日山口県の厚狭(あさ)にある「日本火薬会社」から札幌の「三田火薬店」および岩見沢の「川口火薬店」に輸送していた火薬やダイナマイト865箱を積んできた正保(せいほ)丸から艀(はしけ)に移し、更に艀から鉄道貨車2台に積込み作業をおこなっていた際に突然爆発した。
 積み込み中の作業員および現場近くで荷揚げ中の作業員その他約300名が死傷し、機関車が吹き飛び、火災が発生し、現場の手宮町一帯は人々のうめき声であふれ、まるで戦場のようであった。

原因に三つの説
 真相は全く不明
  運搬中に作業員が落としたか
 
爆発の原因については、現場で作業していた者が全員死亡したため、真相はわからないが一説によれば火薬を積込んでいた大艀の近くで揮発油(きはつゆ:ガソリンなど)を積んだ大艀も繋留していて、最初揮発油に火が移り、これを消そうとしたところ、突然爆発したものらしいとも言い、また、運搬中の火薬はダイナマイトであって運搬中の作業員が肩から一個落とした際に爆発したとも語り、また、艀の甲板下のストーブの熱で発火したとも言われるが、真相は全く不明である。
 なお、数時間にわたり黒煙がもうもうとして焼け続けたのは、大部分が揮発油であった。また、導火線も多数焼失した。

爆発の瞬間
   シューッと音がした
 現場付近に居た一作業員は負傷した片手に包帯をしながら語る「私は当時現場のそばで仕事をして一寸一服という所で煙草を吸っていますと、急に二十間(約36m)離れた海につないである船の中で、電光のような光がしたと思うとシューッという音が聞こえました。おや、これは火薬が爆発したんだと感じましたが、それからは真暗になったような心地でした。気が付いた時にはこの戸澤病院に運ばれていました」

判断つかぬ音響
  現場を見るどころではなかった 負傷した男の話
 爆発現場から一町(約109m)ほど離れた三井現場で負傷した下出亀蔵は火薬の煙で吹きつけられた真っ黒い顔をして目をきょろきょろして『わかるもんですか、突然「グワン」とも「ヅドン」とも判断つかぬ。耳もつんぼになる様な大音響がしたのは知っていた。俺もやられたなと思っていたが、わずかに手だけケガしてブッ倒れていた。現場を見るどころではなく、すぐに病院へ飛んできた。火薬を積んでいた艀はもちろん、付近にいた別の艀も形をとどめず火が燃えていた』と震えながら語った。

死者約120名
  負傷者の推定つかぬ
        爆発はこれで二度目

 小樽港での爆発の惨事は二回目で、明治25、6年頃、入舟町佐々木銃砲店の火薬が爆発し、同家で負傷者を出したことがあった。今回の大爆発は第二回目にて、水上署で取り調べを進めているが、これまで(午後2時30分)の推定によれば死者は120人位の見込である。負傷者に至っては未だ推定がつかぬ程多数である。

作業員の大半 生死不明

 艀2船は繋留中のもの
     負傷者収容に大混雑

 現場は高架桟橋から南に約二丁(約218m)の北濱町手宮駅構内船車連絡所で、常時多数の貨物を満載した大艀で付近の海面は埋められている。爆発した火薬は27日の朝、正保丸から同所に繋留中の艀2隻に移された。貨車に積込みはじめたのは午前9時頃であった。
 同所に働いている作業員は海上・陸上担当の約200名で、爆発と同時にこれら作業員の大半は行方不明となり、負傷者は救護隊および警察官が急造の担架により、全員稲穂町、色内町、花園町方面の病院に収容された。

 病院の死亡者
 各病院に担ぎ込まれてから午後4時迄に死亡した者は次のとおり。
岡本病院:三ッ山組横山豊治(35歳)他一名
三谷病院:2名
植田病院:1名
岡本病院:二ッ山組泉才助、北〇艀組横山某
 計7名

 各病院の大混雑
   負傷者の手当に忙殺される
 小樽の外科病院は現場を中心とした被害現場から、自動車や担架等にて送り込まれる重軽傷者ため、まるで戦場のようである。三谷、鎌倉、小樽の三病院は勿論、外科手術をする、しないにかかわらず院内をあげて負傷者の手当に忙殺された。
 三谷、鎌倉と比較的重傷者が収容された病院の門前には、被害関係者が集まり、もしかすると家族がケガ人となって送られて来るかと不安な気持ちでいっぱいになっている様子が痛々しい。

 手宮駅の大損害
  徹夜の働き
 火薬爆発のため手宮駅は甚大な被害を受けた。斎藤手宮駅長は直ちに札幌鉄道局に電話にて報告。これを受け、斎藤局長は菰田運転兼運輸課長、鈴木工務課長、羽島工作課長、阿部電気課長ほか各関係係長、佐藤札幌運輸事務所長等を係員を従え、臨時列車を出し、手宮駅へ派遣した。到達後、直ちに対策本部を手宮駅駅長室に設置した。
 一方鉄道関係関係の死傷者に対しては、直ちに鉄道合宿所(研修をおこなう)を臨時病院とし、札幌鉄道局より門馬外科医長は看護婦五名を随えて急行した。合宿所に収容された人は20数名に過ぎないが市内各病院で手当を受けているものが、まだ多数いたため、駅員を各病院に派遣し、収容に努めた。
 また、被害か所は手宮駅を初め貨物室鉄道倉庫機関庫外数個の建物の他、石炭引込数線および海岸線二線等で線路は土砂に埋まっている所もあれば数十間(1間は約1.8m)の間陥没した所もある。被害の程度は未だ判明しないが十数万円の見込である。保線事務所員は徹夜復旧に努力し、運輸関係者もそれぞれ対策を講じて、全員徹夜となった。

倒壊家屋
 これまでに判明した損害の大きなものは次のとおり
大倉貯炭現場の家屋倒壊、作業員2名行方不明。
三菱貯炭場の石垣が崩壊し2名重傷。
山下貯炭場1名重傷。
三井物産会社および郵船支店はガラス戸全部破壊。そのため負傷者多数。
陸軍第七師団糧秣廠事務所および倉庫半面倒壊した。

巡査2名生死不明
  原因はストーブの残火か
 火薬陸揚の際に現場に立ち会った(小樽)水上署巡査岸政吉、小樽署髙野某は生死不明で現在捜査中である。一説によれば火薬積載の艀に前夜ストーブを焚いていたことから、これにより引火したものでなかろうか。

気の毒な岸巡査
   二十五歳の厄年(やくどし)
 職務で殉死した水上警察署勤務岸政治(25歳)氏は山形県最上郡戸澤村字神田388番地1号の戸主松治の四男であって、大正10年野砲兵二連隊に入営し、上等兵に昇進し伍長となる。事務勤務好成績をもって除隊となり本年4月4日北海道庁巡査を拝命し、小樽水上署に命ぜられたものである。 
 性温順職務に忠実であって、最近同僚に「25歳の厄もモウ少しだ」と語っていた。死体は今だ不明である。
注)明治40年(1907)から昭和19年(1944)まで小樽警察署とは別に小樽水上警察署があった

爆発したのは六百個
  二百五十個は札幌送り済み

 ダイナマイトは総数850個の内250個は既に鉄道で札幌へ送出し済みとなっていたので、残り600個が爆発したことが判明した。

その2につづく

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