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小樽新聞 大正13(1924)年12月28日 日曜日 その3

重傷26名 軽傷280名 小樽水上署午後6時までの調査
 中一(なかいち:運送業社)艀部(はしけぶ)第二部では積込中の作業員高橋明三、池田辰三、佐藤彌三太、三浦藤一郎、工藤善一、今野治作と作業の立ち会いに来ていた柳原作十郎と計7名は爆発と同時に行方不明となった。
 曳船(船舶や水上構造物を押したり引いたりするための船:タグボート)汽船むらさきのボースン(水夫長)石灰外次郎は辛うじて死を免れたが機関士の道井磯次郎は重傷である。
 なお、小樽水上署の同日午後六時頃までの調査では死亡10名、重傷26名、軽傷280名で、死亡者のうち氏名の判明した者は手宮駅勤務機関士小形(?)槌(54)市内錦町横山豊治(34)住所不明の泉才助の3名である。

市役所の特別措置
 小樽市役所では今回の災害で死亡した人のため、特別に死亡届、火葬許可書は市役所内の戸籍係で無料で交付をすることになったので、一般代書人に行かず、市役所に来るように。その際、戸籍謄本と印鑑を忘れずに持参してほしいとのこと。

揮発油500缶延焼
 爆発の原因については小樽水上署が関係者を集め事情聴取中であるが、噂によれば爆発当時、ダイナマイトのほとんどは陸に上がっており、艀には約300箱くらいしか残っていなかった。
 発火の原因はダイナマイトを貨物列車に積入れの際に誤って落としたことが、爆発原因のようだ。これにより沿岸でダイナマイト積込作業の終了を待っていた運送業社「中一」が積込を担当している日本石油会社が発送した揮発油500缶が延焼したものらしい。

遺体収容所で泣く家族
 人々も、もらい泣き

 遺体収容所にあてられた済生会診療所は、したたり流れる鮮血に染められた荒莚(あらむしろ)の担架、眼を泣き腫らした遺族の人々などで悲惨な情景となった。
 午後6時までに収容された遺体は21体で、同所には宮腰氏、菅分会長以下各隊員は軍隊のように手際よく、収容任務をこなしていた。行方不明者の親子、兄弟親戚、知人などは怯え、震えながら遺体に被せた荒莚をあげて顔をのぞき込んでいる。
 47・8歳位の婦人が「笹原栄蔵というのですが」と担当警察官に申し出て遺体を調べて行く中、6人目の莚をあげた時、彼女はサッと莚を伏せて角巻(かくまき:毛布状の肩掛け)で顔をを隠してしまった。 そこには血にまみれた無残な姿の栄蔵の遺体があったのだ。「ご亭主ですか」と聞けば「いいえ弟です、今年42歳で、男の子がひとりいるんです」と言い終わらないうちに泣き伏せてしまった。
 大惨事の夜の遺体収容所はこのように氏名が判明するたびに、何度も悲劇が繰り返さることであろう。院外にはこの悲惨な様子を見る人たちで溢れかえっていた。

爆発の責任はだれに 開港々則を施行せよ
 大手海事組合長談

 今回の大惨事の原因について、日本海事組合小樽出張所海事鑑定人でさらに三菱船舶部において、数年間火薬積込取締であった大手九重郎氏を訪ね、意見を求めたところ、つぎのとおり述べられた。
 「私は今朝、ハバナ丸に積付検査に行っており、事件発生時には船上におりました。ランチ(桟橋に着けない大型船と桟橋を行き来する小舟)が不足していたため、帰りが遅くなったことから、事件の原因については情報がないので、何事も申し上げられないところですが、火薬のような危険物を港内で取り扱う場所は開港々則(かいこうこうそく:港内における船舶交通の安全と整頓を図ることを目的として明治31年7月8日制定された法律)に従っている港には無い。門司港では港から32キロほど離れている六連島にあるのだが、小樽は開港々則を施行されていないため、あんな市街の中で取り扱われているのだろう。いずれにしても危険極まりない話である。今回の惨事の原因はダイナマイトの爆発だと言われているが、ダイナマイトは落としたくらいですぐ爆発するはずはなく、あるいは雷管が一緒にあったか、さもなくばニトグリセリンを発生していたのではあるまいか。また一説には引火とも伝えられているが、引火とすれば導火線用の黒色火薬に点火したものだろう。この惨事を起こした責任については、私の立場として何も申し上げられないが、この事件になんら関係ない者として推測をすれば、艀船上においてこのような事件が起きた際、取り扱い運送店、労働派遣者、艀業者のいずれかの責任になる事は免れないはず。また、荷受主としても道徳的には責任を感ずることになるであろう。なお、運搬の立ち合いにあたっている水上署にも責任があるが、ダイナマイトと雷管等を一緒に積込む事を禁止する権限もないのだからこの点はなかなか面倒である。いずれ今回の事件は世間の論議を巻き起こすことになるだろう。大阪葦分(あしわけ)の三菱倉庫大爆発(大正6年5月5日午後4時55分ごろ、東京倉庫大阪支店(明治25年開設、大正7年三菱倉庫に社名変更)芦分事務所構内の倉庫、北区安井町(現野田6丁目5-2付近)で爆発事故)の際には

【引用】三菱倉庫大爆発について
大阪倉庫の爆發:フィルムは記録する ―国立映画アーカイブ歴史映像ポータル―
「大正6年(1917)5月5日午後4時50分ごろ、木樽入りの塩素酸ソーダを芦分事務所構内G号倉庫へ庫入れ荷役作業中、作業員の一人が、肩にかついだ樽を2段目の拼(はい)に置いた

拼(はい)に置いた状態

ところ、その樽から白煙が出始めるのを認め、急いで庫外へ運び出す途中、火炎を発して庫内の貨物に燃え移った、というのが事件の発端である。このG号倉庫には、塩素酸ソーダのほか、塩酸カリ等の特別危険品が充満していたので、同庫内は、たちまち火の海と化し、やがて大音響とともに、屋根と壁体を空中高く吹き飛ばした。その瞬間、猛火は隣接のH号倉庫に燃え移り、ここでも、アルコール、ベンゾールなどの特別危険品を収蔵していたので、火勢はさらに強まり、やがて2度目の、より強烈な爆発を生じ、さらに火の手は塩素酸ソーダ、塩酸カリ、過酸化ソーダを収蔵していた隣接のI号倉庫を襲い、ここで3度目の最強烈の大爆発を引き起こした。」https://filmisadocument.jp/films/view/55

*この動画では当時の警察官や看護師の服装、遺体(死体)収容所の様子、捜索活動も撮影されていることから、8年後の小樽爆発事故の状況が想像できる。
【引用】終了

三菱が即座に100万円をだして慰謝料にあてたから表面上はあまり騒がなかったが、大資本家でもなければこのような対応は難しいだろう。開港々則に従っている港では、港務部の艀が港外で積荷の届出を受け、危険物は港外で陸揚げするのだが、小樽も早々に開港々則を施行する必要があるだろう。なお、船荷の積荷説明をすることが小樽では正確に行われないが、積荷説明をする場合はダイナマイトの通風装置、雷管と分離等は厳密にすることで、このような危険は大いに防止されるのである。」

火薬大爆発
小樽市空前の惨事

 27日午後1時28分、小樽市民は異様な大音響に驚かされて青ざめた。
ある者はこれを地震であるとし、またある者はこれを火山の爆発だと怯えている間に、黒煙が手宮の上空に渦巻くのを見て、始めてそのどちらでもないことを知り、やがて手宮駅構内にてダイナマイトが爆発したことが徐々に伝わり安心し始めた。
 我々が本文を草稿するまでは、その被害の程度等について、正確な情報を得なかったが、少なくとも第三火防線以北一帯、すなわち全市のほとんど三分の一は、程度に多数の違いはあっても、これを被害区域と見ていいようである。特に手宮駅構内の鉄道倉庫はことごとく倒壊し、付近の澁谷倉庫、板谷倉庫、量秣倉庫、同事務所、専売局出張所製缶会社工場等はその被害が甚大であり、その他被害区域一帯に渡る損害の程度は莫大な数字になるであろう。さらに人命の被害に至っては、死傷者約200人にのぼるとなれば、これは大惨事であり、その状態がいかにむごたらしく悲惨であるかは、説明するまでもない。
 ただこの大惨事、この一大不幸中の唯一の幸と言えるのは、この日の天候の極めて平穏であった時の出来事だったことである。もし天候が、手宮方面を風上とする西北の強風の吹き荒れた日であったならば、この激震のため、ストーブ等の倒壊によって発生した火は、付近一帯に延焼して、被害と悲惨の程度を一層大きくしたことであろう。
 幸にこのような結果にならなかったのは、誠に奇跡として、市民のために喜ばなければならない。しかし我々は、奇跡が起こることを期待して、12万市民の安全を神頼みし、呑気でいることはできない。火薬の爆発は、ある場合においては、人の力では何も出来ないものかも知らない。しかし我々の幸福の要求は、どのような場合におても、これを不可抗力として、あきらめることを許さない。言い換えれば、既に取締規則がある以上、これをしっかり守ることで、その危険を絶対に防止することが、当局の義務であるとともに、これを要求することは、市民の正当の権利といって差支えないのだ。
 この点について、取締局の措置は、果たして何の落ち度もなかったであろうか。伝わるところによれば、この惨事の原因は、手宮駅構内において、貨車に積込みの際、作業員が誤って落したためであると言い、また前夜この爆発したダイナマイトを積込んで置いた艀の中で、ストーブを焚いて暖を取っていた者があったのだとも言う。諸説の真偽はもとより我々の知るところではないが、我々が得た各種の情報によればこの責任の所在は、不可抗力ではなく、これを取り締まる当局の不注意ではないか。
 我々は今日の大惨事により、その貴重なる生命と健康を失った多くの死傷者およびその財産を失った多くの被害者の不幸に対して、深く同情を示すとともに、早急にこの惨事の原因に対する責任者の率直な説明を求めるものである。


次回「小樽新聞 大正13(1924)年12月29日 月曜日 その1」に続く


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