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(タイトルなし)CHAN×PARK【ナックルズ文芸賞 受賞作品】

第1回(令和5年)ナックルズ文芸賞
『ナックルズ優秀賞』受賞作品

タイトルなし
CHAN×PARK


 正直、迷った。花房観音のツイッターで“ナックルズ”が原務を募集しているという情報を見てもすぐに反応できなかった。正真正銘のアウトロー相手のナックルズで、自分が相応しいとは到底思えなかったからだ。昭和四十六年生まれの在日国人三世。出生直後、在日二世の父親は多額の借金を残し日本の女と逃げた。母子が残されたアパートにかかってくる脅迫電話。父が金を借りた暴力団からの執拗な嫌がらせが母の精神を破壊した。ある朝祖母がアパートにやってきた。扉を開けると赤ん坊の首を絞める娘がいた。床一面、真っ赤な血の海だった。救急車で運ばれ即入院。物心つく頃から母は夜の街で働いていた。

 面倒を見てくれたのは在日一世の祖母だった。祖母はムーダンと呼ばれる巫俗、いわゆるシャーマンをしていた。母が親子心中を試みた朝、祖母は悪夢に魘され慌ててアパートに来たという。
 幼少時、体調が悪くなると祖母はまじないをしてくれた。呪術用の鍋に見慣れない薬草を入れ、独特の節回しを入れた韓国語を唱え、ドロドロになった食材が入る鍋を包丁で叩き、歌い、踊った。それは一時間以上も続き、祖母はトランス状態に陥り自分は気を失った。目覚めると体調がすっきりとしている。祖母に感化されてか、そういうものを感じるようになった。八十年代、宜保愛子という霊能者が一世を風廃した。

 心霊番組で彼女が海外の幽霊屋敷を訪れる映像が流れたとき、彼女の足にまとわり付く何百匹ものネコや、開かずの間から飛び出てきた鳩の頭ににょっきりと生える人間の生首などが見えた。小学生の頃、母親はとある新興宗教の信者となった。開祖は後に女優・若村麻由美と結婚した巨漢の僧侶の父親である。毎週末、団体の集会が行われ自分も参加させられた。

 開祖の元に集まった信者たちが一心不乱に経を唱え霊的施しを受けた。我家には教団から購入した豪奢な祭壇が飾られ高価な仏像が安置された。開祖のいうことを母は一字一句実践した。
 毎月何日はこれに気をつけなさい、あれをしてはダメといわれ、人間の都合よりも教団の教えが優先された。護符と呼ばれる灰色の紙屑のようなものを無理やり飲まされ、霊が寄りつかないという黄金色の仏陀の肌守りを首から下げられた。体育の授業で着替えを行うとき他の児童に見つけられ、いじめられた。

 母子家庭の在日韓国人。それだけで十分な標的だったが毎日が地獄だった。ただその教団には有名人が多数来ていたのも事実で、日本が誇る元競輪選手や、紅白歌合戦出場の演歌歌手、上方を代表する女性漫才師を見ては、子どもながらに心が躍った。父親のうらざりや心中未遂を経験したことで、母も何かに救われたかったであろうことは理解する。母親自身も弱い人間だった。
 子供時代、母から暴力を振るわれた。小学低学年のとき母はスナックのママになった。店の男客たちを家に招き、夜中自分が寝ている横で男女の営みを始めた。既婚者と二人で宿泊旅行へ行っている間は家に食べるものがなかった。機嫌が悪いときや男と上手くいっていないときは殴られ職られた。学校ではいじめられ、家では虐待された。学校の先生も安心できなかった。

 小学三年生時の担任である女性教師に放課後の教室で下半身の上に跨がれ両胸に顔を押し付けられた。高校時代、店の男客に母が仕事中に家へ上がられ全裸にされた。肉棒を口に入れられ腹の上に吐精されたが、何故か嫌がらない自分がいた。親もとから離れたくて大学は県外を目指した。だが成線は最悪でテストは赤点だらけだった。年が明けた高三の冬。

 合格祈願のためある地蔵寺で百度を踏んだ。菜食に変え自慰行為を絶った。祖性も毎夜、歌い、舞った。受験当日、答案用紙を見ていると不可思議なことが起こった。解答用紙のマーク欄が一箇所だけ黒く浮かび上がるのだ。そこを塗りつぶしていく。その春、早稲田大学に合格。偏差値五十未満の自分が一番驚いた。
 上京後は霊現象が続発する木造建てのオンボロ学生寮で極貧生活を送った。早慶戦の後、歌舞伎町に来ていた慶応生の服を脱がして素っ裸にし、フルチンで夜中の歌舞伎町を走り回り警察に追いかけられた。

 TBSの大食い番組で収録時にやらせを強制され、統一教会に入信した後輩を奪還するため教会に乗り込み幹部とバトルを繰り広げたりしたものの大学生活は平和だった。が、就職活動時に自分が何者かを教えてもらった。有名週刊誌を出す大手出版社で「うちは韓国嫌いだから」と三次面接でいわれた。その他何十社受けても採用されなかった。

 ただ一社だけ、自分を抬ってくれた会社がある。加藤登紀子の夫、元全学連委員長の藤本敏夫が創設したNGO団体だった。上司の多くが左翼だった。自己批判、総括、オルグなど、今まで聞いたことのない言葉を耳にした。業務中、元全学連の上司と元全共闘の上司が対立し、それを元べ平連の上司がとりなした。飲み会の席では、革命思想、小型の時限爆弾や火炎瓶の作り方、共産主義の講義が行われ、左翼思想を徹底的に叩さ込まれた。
 入社後まもなく、上司と社民党の議員らと霞ヶ関に乗り込み、農水省の官僚と激しくやり合う修羅場に連れて行かれた。飲み会の席である上司が「お前の夢はなんだ」と聞いたので、冗談交じりに「米帝を殲滅し日本政府を打倒することです』と答えたら、その場にいた上司全員に泣かれた。

 その頃からゲイ活動も盛んになった。二丁目の飲み屋や発展場と呼ばれるゲイが性処理の相手を探す場所に通いつめセックスに溺れた。ゲイバーで知り合った作曲家と事が済んだ後、松田聖子に曲を提供させてやるからと男性プロデューサと肉体関係を強要された話を聞いた。
 発展場でテレ東のアナウンサーとマッチョを取り合い、二丁目の老け専バーで年上の客を巡って激しくやり合った今は亡き芸能リポーターのこと、深夜に白人の彼氏とお忍びで来店した有名アーティストに悪態をつきまくり、怒ったそいつにパンチされたことがあった。テレビにも出ていたニットの貴公子や陰陽師にも口説かれた。
 二十代の頃に付き合った年上が超絶の変質男で、SM・スカトロ・フィストファック・乱交などあらゆる変態行為を教えられた。夜中二丁目の街中で全裸になりそいつのモノを咥えさせられたり、そいつの前で他の男とセックスするところを強要された。
 三十代になると外国人に興味を持ち始め、彼らが集まるパーへ行き片っ端にヤリまくった。日韓ワールドカップの期間中は毎晩二丁目で、夜の親善大使としてボールの代わりに別のタマを転がした。気がつけば今のG20参加国(EUはオランダやスイス他を含む)出身の男たちとまぐわっていた。

 左翼系の会社を辞めた後、不法滞在の中国人を雇い、輸入肉を国産牛と偽って提供する焼肉店や、給料が三ヶ月も滞ったあげく薬事法違反で社長以下役員が逮捕される企業など職を転々とし、母親の内縁の夫が急死したことを機に故郷へ戻った。民団の知り合いの紹介で、地元で有名なパチンコ店に入社した。在日二世である会長が統一教会の現役信者だった。

 入社後間もなく社長である会長の息子が結婚した。花婿の社長も相手の花嫁も統一教会の信者だった。時は民主党政権。岡山で一番格式が高いと評判のホテルで披露宴が行われた。

 業界関係者、民団幹部、地元のマスコミ、商工会関係者、地方議員らに混じって、岡山選出の国会議員が与野党揃って出席した。与党である民主党、当時野党だった自民党の国会議員ほぼ全員が顔を出した。両家共に国籍のため選挙権はない。すべては会長一族の金と権力のなせる業だった。乾杯の音頭を当時の法務大臣が務め、来賓一番目の挨拶を自民党国会議員が行った。

 会場にいる両家の肉親・友人・知人のほとんどが統一教会の信者である。教会の幹部も大勢いた。この華々しい結婚式からわずか六年後、負債総額約二百億円を抱え同社は倒産した。
 その後も社長が元オウム真理数、現在のアレフの信者である補聴器屋で社長から入信を勧められたり、法令違反続出の運送会社で定期検査にきた陸運局の人間に社長が金を渡す場面を目撃したりと、数えきれないほどのプラック企業を渡り歩いた。

 ちなみに岡山の民団では会計職員による団費の私的流用や、妻子持ちの団長による輪国人留学生への妊娠騒動など、在日国人の地位と人権を守るという名分を疑いたくなる事象が相次いでいる。2021年、岡山で中四国発のゲイパレードが開かれ、地元の性的マイノリティーが多く集まり大盛会だったが、会場となった公園に面した道路は大型車両進入禁止の場所だった。

 だが、ある国会議員のお陰で許可が下りた。地元選出、当選回数十二回の自民党ベテラン議員である。パチンコ店社長の披露宴にも出席した国会議員がLGBTのイベントのため、警察に法令違反を黙認させた訳だが、彼は統一教会とも関係があることが知られている。その統一教会の教えは反同性愛。当日は同性婚に懐疑的な与党の国会議員と共にイベントのステージに上がり挨拶をしたが、参加者からの反応は超絶に薄く拍手も声援もなかった。

 いまは歳も五十を超え昔ほど元気はなくなったもの、不法滞在の外国人、十代の大学生、キメセ好きのジャンキーといったセクフレ達とそれなりに毎日を楽しんでいる。共産党関係者と街中でプラカードを掲げたり、大手電力会社で勤務する傍ら脱原発活動を続けたりと、自分なりに細々とした左翼的活動も続けている。
 ナックルズに相応しい正真正銘のアウトローとは呼べないものの、そこいらにいるお坊ちゃんお嬢ちゃんよりは違った世界を見てきたと思う。

 在日コリアン三世・宗教二世・幼児虐待・イジメ・左翼・ゲイ・親子心中末遂・転職回数数十回・ブラック企業渡り歩き。道を外したと人生いうよりも、もともと外れた道しか用意されていないような人生を、ただ目の前にある道を自分はこれからも歩いていくだけである。