お盆は自分ファミリーヒストリー

今年に限っては、墓参りも『お二人まで』と人数制限のお願いがあった。

仕方ないよね。
家族やら親族やら、何かと人が集まる時期だし。お寺も蜜になっちゃうわけだし。

移住してから8回目のお盆だけど、朝起きたら墓に行くこの「田舎スタンダード」な慣習をできなかったのは昨日だけだ。それぐらいにイレギュラーな2020年をおくっている。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

そんなわけで、いつも帰ってくる義理の兄弟も、いつもくる親戚のおじちゃんも、来てないし、来ないだろう。今年は、静かな、お盆だ。

ところで、お盆は、何かと『自分の存在』について、ぼやぼやと考えさせる時間だと思う。お盆になる直前に、こんなツイートをした。

お盆前に
ファミリーヒストリーを敢行
ぼんやりしていると 盆は
自分とは 家族とは 人間とは 宇宙とは と馳せる
いつも行かないお墓に。義母のルーツを辿る
なかには10世帯にも満たない墓地も。そこに眠る先祖がいなければ、横にいる妻や子どもたちも存在しない。
今日は妻の誕生日祝

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相方の『誕生日』も相まってか。そのルーツについて、想いが馳せた。

妻の母方の御先祖について、話がおよぶにつれ、その人たちが眠るお墓ってどこにあるの?と、お墓の話になった。

普段はあまり気にしていないけども、嫁いで来た『母』たちには、それぞれ実家というものがあるし、その家のお墓が存在する。

慌しくなる、お盆前に、義母のファミリーヒストリーを決行した。

いつも行かない「お墓」巡りである。

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40年前に一度来たっきりのお墓にも行った。田舎だし、当然、ランドマーク的な道標もない。ただただ、『義母の記憶だけ』を頼りに車は進む。

『ここだったかな』

こんなところにあるのかよ、という舗装されていない小道に入ると、雑林の影にお墓が現れた。

60代と見られる若いおじさんが、お墓をせっせと掃除していた。お墓は全部で10世帯もない。きっと集落の数なんだと思う。よく見ると、墓地の崖になっていて、そのし下に集落がある。

昔の集落は、どの家からも見える高台にお墓が作られたんだよ。みたいな事を義母が話していた。義母はいつになく張り切って見える。水を得た魚のようだ。掃除していたおじさんとも話す。

僕を見るなり、〇〇さんところのセガレか?などと直球がくる。
田舎ならではの、洗礼だ。探るのが大好きだ。
しかも、どこに行っても地元みたいな顔をしているようで、『孫代表』のような顔をしているのが、僕であるらしい。バス停で、同じ日に3度、別々の人に話しかけられたことがある。

もうひとつ別のお墓にも、寄った。もう少し規模の大きい墓地だった。その墓地は、ひと昔前の乱雑に配置されていた墓地を、綺麗に再フォーマットされた墓地だった。小柄で一つ一つの造形がユニークで経年変化した墓碑が敷地の一角にまとめられ、区画整理された新しい大きな墓碑が、等間隔に配置されていた。

いくつかの時代を経たことがわかる。

その後、母の実家に寄り、ご健在の長老たちに会い、桃とスイカをゴチになった。一緒に連れて行った、わたしの坊が、カブトムシをせがむと、齢90を超えたおじじが、どこからか、小クワのメスをとってきて、渡してくれた。

坊の顔が輝く。その顔を見て、おじじも輝く。
こんなジジイになりたいと思った。

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