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3.11を越えて―福島へ行く意味とは何か

 3/10~3/13の日程で、単身で福島を訪問した。高校時代、東日本大震災直後に東北地方にボランティアに入った先輩方が始めた、学校内外に被災地の現状を伝えるプロジェクトである「東北企画」を引き継いだ。また実際に福島に2度、宮城の気仙沼に1度足を運んで現地の状況を目の当たりにし、現地で生きる方々のお話を伺ってきた。そのようなご縁もあって、僕自身が高校から大学へと進むタイミングでもあるこの震災10年という節目は是非福島で迎え、福島の現在地を目に焼き付けて「今後の福島との関わり方」を模索するきっかけにしたいと思い、訪れることにした。
 特に3.11当日は、以前の訪問の際にお会いしてご縁ができた元東電社員の方と、双葉郡を中心とする地域を見て回ることとなった。大切な日を共有させて頂くのは最初は憚られたのだが、熱心に誘って頂いたため、ご一緒することにした。10年を迎える現地の空気感と住民の方の想いを肌で感じたその特別な体験を中心に、今回の福島への訪問を振り返って記録したい。

これまで自分は「向き合えて」いたのか

 10日夜。翌日の浜通りへの訪問を控え、郡山のホテルで東日本大震災について改めて調べていた。福島県の公式資料、国や東電の原発事故への対応の検証記事、震災により生活を奪われたある家族の物語、など、その内容は多岐にわたる。その中で、あることに気がついた。自分はこれまで東北企画の活動に熱心に関わってきたにも関わらず、8歳の時に漠然とテレビで見て幼心に衝撃を受けて以来、実際の津波の映像を「直視」して来なかったことに。

 10年の時を経て改めて直視してみると、それは地獄絵図であった。津波と瓦礫が一体となって、土砂の塊となって全てを呑み込んでゆく。一瞬にして、畑が一面の海に変わる。この世のものとは思えなかった。その時に痛感させられたのが、これまで自分は東北で起こったことに断続的に向き合ってきたつもりでいたが、本当はちゃんと向き合えていなかったのではないか、ということである。結局僕は、ホープツーリズムの枠内とその延長線上のみで、この問題を見ようとしていた。それを、主体的な向き合い方へと転換していくこと。それが、今回の訪問以降で自らが成すべきことだと思い、床に就いた。

福島は前を向いていた

 元東電社員の方との訪問で、意外に感じた光景がある。昼食を取るため、楢葉町のJヴィレッジを訪れた。震災直後は東電の前線基地としても使われたこの場所で11日当日に行われていたのは、「SONG of the EARTH」という音楽イベントであった。

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 そこで出会った方々は、皆心底楽しそうだった。アーティストのライブを楽しむ方、出店で地元の特産品を売る方、原発事故後に屋内で遊べなくなった子どもたちに「遊ぶ体験」を提供するビジネスを立ち上げ、それを紹介している方。あの日の出来事を受け止めつつも、前を向いている住民の方々のキラキラとした笑顔が印象的だった。「この日はもう、鎮魂の日というよりも、お祭りの日なんだなあ」ポジティヴな意味で、思ったよりも「3.11」「10年」に縛られない日常が流れているように見えた。
 しかし、元東電社員の方が仰った一言は決して忘れてはならない。「忘れがちになってしまうけれど、今日は誰かのご家族にとっての命日だからね」

福島県内での「差」

 ただ、上に書いたような光景は、楢葉町だからこそ見られたものだという側面もあるかもしれない。福島県の中でも、原発事故の影響を直接被り、帰還困難区域に指定されることもあった浜通りと他地域との間に、再建の進み具合や人々の表情などに大きな差があるのはもちろん、浜通りの中でも差が見られるのを感じた。
 元東電社員の方は、「やはり津波の被害を受けた人とそうでない人とでは痛みの感じ方、立ち直り方も違う。津波の被害を受けていない僕は受けた人の苦しみを分かってやることはできない」と仰っていた。その津波の被害についても当然地域差が見られる。例えば、地形的な理由で、意外にも双葉郡の津波の被害は最小限のものだったそうだ。彼は「原発事故さえなければ、双葉郡の住民は仙台に応援に行っていたと思う」と仰っていた。ちなみにそれが仙台である理由は、双葉郡は娯楽施設に乏しく、変わらない日々を繰り返す住民にとっては、週末に遊ぶために東北地方最大の都市である仙台まで出て行ったからだそうだ。「文化レベルの差は致命的で、僕は双葉郡は首都圏より20年遅れていると思っている。今はスマホがあるじゃないかと思われるが、スマホでは自分の見たい情報だけが選択的に目に入ってくるため、本屋を歩いていて出会うような“偶然”が無い」とも言っておられた。このようなことは、現地の方のお話を聞いてみないとなかなか気づけない部分である。

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 何はともあれ、いわきから南相馬まで北上する中で、地域ごとの差を感じざるを得なかった。日々を前に進めようと、笑顔でお祭りを開催している人たちがいる。その一方で、福島第一原発(1F)が置かれている大熊町や双葉町では、片付けすらままならず、10年前の洗濯物がそのまま残っている民家がザラにある。そんな状況だと、最早片付けをする気力すら出てこない。大熊町の帰還困難区域には至るところにバリケードが張り巡らされ、双葉町に取り残された家々の処理は住民に委ねられている。

3.11以前の双葉郡

 福島や東北を語る際、多くの人は3.11以後しか見ようとしない。これは僕が2回目に福島を訪れた時に感じた問題意識である。過去・現在・未来という形で地域を見つめ、今後に向けた歩みを考えるなら、3.11以前の様子には目が向けられて然るべきである。しかし、そのような報道はごく稀であるし、現地に行ってもそれを知るのはなかなか難しい。
 2011年以前の大熊町や双葉町がどのような場所だったか、知っているだろうか。実際に僕はよく知らなかった。だからこそ、双葉駅での展示で写真を見た際は、新鮮な感じがした。

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 これが2008年の国道6号線沿いの様子である。震災以前の双葉町はこんなに栄えており、良いところだったのだ。それが、今は荒廃した状態である。これが、何年にも渡って人の立ち入りを不可能にした原発事故の威力である。

「3.11」報道の光と影

 私たちが「3.11」に関する報道に触れる際、それにはある程度のバイアスが掛かっているということを認識しておくことは重要である。私たちが目にするのは基本的に、首都圏発の(首都圏から取材に入ったことにより得られた)報道である。上で書いたように3.11以前のことには殆ど目が向けられないという問題もあるし、地域外からの偏った見方での取材に、地元の方々が嫌悪感を覚えるということもしばしばあるようだ。毎年3月11日の前後にしか大きな話題に上ることがないからこそ、伝えられたことの裏側や伝えられていない「日常」を見に行く姿勢が私たちには必要ではないだろうか。
 死者数、行方不明者数、避難者数、無味乾燥に積み重ねられる「1」の裏には、一人一人の大切な物語があるのだし、被災した方の数だけストーリーがある。一般化して捉えてしまうのではなく、そういった物語を理解するためには、出来事についての正確な知識を提供するとともに、受け取る人の情動に訴えることも必要である。その点でメディアが果たす役割は大きいと僕は考える。

 この記事を読んだら、感じることもあるはずなのだ。

「復興」を定義し、ヴィジョンを描く必要性

 一緒に地域を回る中で、元東電社員の方が切実に訴えていると感じたのは、何をもって「復興」とするのかを考えること、そしてその上で、それに向けた大きなヴィジョンを描いていくことの必要性である。
 例えば、以下の写真は、双葉町の産業交流センターから見た町の風景である(胸が圧迫され、道を歩いている時には写真を撮れなかった)。

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 震災から10年経った時点のこの状態を、本当に「復興」とするのか、という問題がある。元東電社員の方曰く、この状態でも、10年経って案外「復興」が進んだじゃないか、と言う人が住民にも政治家にも一定数いるそうだ。それは、震災直後の壊滅状態が基準になっているからである。しかし、そんなことを言うのは皆町の外の人だ、と彼は言う。双葉町や大熊町の住民に聞いたら1000人に1000人が、「これで案外復興が進んだ?ふざけるな」と言うだろう、と。
 とは言え、住民の側にも問題が無いわけではない、と元彼は語る。それは、よりマクロなレベルでの議論が成されていない、という点である。現在の町の状況は、「10年でここまで復興を進めます」という約束の結果ではなく、たまたま10年という期間が経過してこうなりました、というものでしかない。そうではなく、まずはこの10年の総括を行い、「何をもって復興とするか」「この町をどうしたいのか」という大きなヴィジョンを描いていくことが必要なのに、住民には国や東電への不信感のみがあり、目先のことしか見えていない、と仰っていた。そのヴィジョンの根底に位置するべきなのは、「どういう人生を送りたいのか」という、町を構成する住民一人一人の考えである。それが地域再生に反映されるような民主主義のプロセスを作り上げていく必要がある。一人一人の人間が、その集積である社会が、「しあわせ」をどうデザインするか。それは何も、福島だけの問題ではない。
 その中で、「廃炉」の終着点についても定義されていく必要がある。使用済み核燃料と燃料デブリの取り出しに数十年を要した後、原子炉建屋の解体をどのように進め、放射性廃棄物を最終的にどうするか。訪問した3月11日は毎年休みらしいので僕自身は見られなかったが、浜通りの国道6号線には、廃炉作業に当たる事業者や放射性廃棄物を載せたトラックが毎日沢山走っているらしい。このことも、実際に来てみないと分からない事実である。それほど大きなリスクを、日本社会は負ってしまったのだ。「復興」の最終局面としては、1Fの置かれた町である双葉・大熊の再生をどうしていくか、が問題になるだろう。それに一定の目処が立った時、26年前に発生した阪神淡路大震災のように、「福島は復興を成し遂げた」と言えるのかもしれない。

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 少なくとも「復興」という言葉は、震災以前をよく知らない部外者が軽々しく使って良い言葉では無いと痛感した。地域の人たちによって定義され、地域の人たちの口から発せられるべき言葉である。それよりも、ポジティヴなイメージを込めて「地域再生」という言葉を(少なくとも僕は)使っていった方が良いように感じた。ただもちろん、これらの言葉は、必ずしも「元通りに戻す」ことを指すわけではない(し、そんなことは出来ない)。

元東電社員の方との一日を終えて

 元東電社員の方と浜通りを回り終えて別れる際、痛切に感じたのは、「僕は今日福島に来て本当に良かったのだろうか?」という問いである。
 帰還困難区域に指定されている双葉町や大熊町の沿岸部には、10年前の瓦礫が未だ残っている。双葉町や大熊町の醸し出す雰囲気には何とも言えない圧迫感を感じ、胸を突かれる感覚がする。そこで元東電社員の方のお話を聞き、住んでいた住民の苦悩を想像したら、気が詰まりすぎて昼食すら満足に喉を通らなかった。2回目の福島への訪問の際に、更地となった浪江町を見下ろしてかつては住宅が並んでいたことを想像し、「一人一人に大切な物語がある」ことを実感するきっかけとなった場所である大平山霊園に訪れた際も、双葉町の沿岸部を歩いていた時と同様、写真を撮る気も起こらなかった。
 迂闊に福島に関われないな、と思った。自分はなぜ福島に来たのだろう。「10年目の現在地が見たい。そして今後の福島との関わり方を模索したい」と言って飛び込んだけど、自分が何か出来ると過信していたのだろうか。僕たちが良かれと思ってやることは、基本的に福島のためにならない。それなのになぜ部外者の僕がのうのうと今日ここを歩いているのだろう。今日は、東北の人のための日ではないのか。
 この問題意識を、元東電社員の方にぶつけた。すると返ってきた答えは、「むしろ“みんなの日”にしないといけない」というものだった。当たり前の日常の大切さを、普通に生活していたら忘れてしまう。いや、忘れるどころか、それに気付かないこともある。3月11日は、そんな当たり前の大切さを思い出す日にしたら良い。だから福島には、冷やかしにでも来たらいい、それで大切なものを思い出したら良い、と。その言葉を聞いても、その時の僕にはまだもやもやとした感情が残った。

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「先生」とお会いして

 その日の夜、福島市に戻って「先生」にお会いした。「先生」は以前、僕の母校である高校で教鞭を執っておられたが、震災後、福島という土地に魅せられて移住された。僕が入学した時には既に福島におられたので、教壇に立たれている姿は実は見たことが無いのだが、縁あって交流させて頂いている。
 そんな「先生」に一日の感想を聞かれ、「僕が来て良かったのかと感じた」と正直に伝えた。そこで返ってきた言葉によって、もやもやとしたものが少し晴れ、シンプルに考えられるようになった。
 「いや、別にそれはあかんってことはないと思うで。俺らは忘れられるのが一番怖いから」
 確かに、福島のために身を粉にして活動しておられる「先生」ですら、震災当時に福島に住んでいたわけではなく、実際に被災した住民の声を完全に代弁できるわけではない。それでも、この言葉は真実に近いと感じた。

東北企画の意義、福島に行く意味

 僕たちの高校で震災以来ずっと続けている、「東北企画」の意義とは何か。震災10年に合わせた今回の訪問によって、自分の中で「有意義なことをしている」という感覚が破壊され、そして再構築された。
 ボランティアなどが必要とされる時期は、とっくに終わっている。現地の方は自分たち自身の力だけで生活を前に進めていくし、とっくにそれが出来る状態になっている。その意味で、たかが学生の僕たちが東北に行くことで、「東北のために」出来ることなど何一つない。自分たちが東北のためになっている、などという過信や傲慢さがあるなら、それは今すぐにかなぐり捨てた方が良い。「東北のために」などというこちら側の論理を押し付けることは、現地の方々の嫌悪感しか生まない。「何が“東北のために”だ、こっちは頼んでないんだ」となるだろう。所詮は部外者である高校生が冷やかしに来ているだけなのだ。

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 ただ、高校生が東北を訪れることは、第一に教育効果が絶大である。「生き方」を学びに来る、「格好良い大人」に会いに来る、それは高校生にとってはとても有難く、そして有意義なことだ。あの経験をしたからこそ語れる言葉がある。そんな言葉を聴きに来ることは、凄く価値のある経験になる。そして、東北での出逢いがご縁となって繋がってくることもある。
 実際に、以前訪れた際に僕が感銘を受けたある地方中枢病院の院長先生は、僕の依頼に応えて母校に講演に来て下さったばかりか、今回の訪問で、一高校生である僕のために2時間もの時間を取って下さった。そして、「躓いたらいつでもおいで」と言って下さる。そんな関係性は、きっと人生の宝となる。
 自分の人生を考える。社会における自分の役割を考える。福島は、それには最適な場所である。何かを解決する術を持ち合わせていない僕たちは、せっかく見て回るなら、そこまで踏み込まないと意味がない。
 そして、そんな僕たちに唯一「東北のために」できることがあるとするならば、それは伝え続けることではないかと思う。
 「忘れられるのが一番怖い」
 10年後の2031年にも「3.11から20年」、2061年にも「3.11から50年」と言われ、日本人の心に刻まれ続ける日であるために、風化させないこと。見てきたものを伝えること。多くの人が考えるきっかけを作ること。それは尊いことであるのではないか。このnoteも、その僅かな一部だと思っている。

 将来の話をするならば、「復興」がきちんと定義され、大きなヴィジョンが描かれなければいけない。その過程で、正に原発事故そのものによって炙り出された、日本社会自体に内在する癒着体質や「規制の虜」ではなく、政治的な意志決定の中に当事者である市民の声をすくい上げてゆく民主主義の在り方を確立させること、そこに必要な科学的知識を提供すること。科学と民主主義の力で地域再生へのヴィジョンを描いていくこと。震災から何年も経った時、外部の人間が本当の意味で福島の役に立てると言えるとするならば、そういう物理学や政治哲学の専門性ではないか。そういう政治哲学を、僕はやってみたいと思う。

 僕は福島に行って良かったのか。「別に悪くなかったんじゃない?」が今の僕の答えである。「かわいそうな地域」ではダメだ、というのが、住民の方々の問題意識なのだと思う。だから訪れる側も、腫れ物に触るように過度に意識する方が良くない。観光地としての福島の姿も見た方が良いし、福島のメシはマジで旨い。それで良いのではないか。
 「自分に何か出来ないか」はおこがましい。「行きたいから行きます」、それで良い。「来たいから遊びに来ました」という人がどんどん増えて、大多数になった時、本当の意味での「復興」の光は差しているのではないか。
 だからこそ、福島県は訴えている。「来て。」

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