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集める・学ぶ・伝える・残す

 2013年8月に僕は「しでんの学校」という趣味団体を立ち上げた。

 当時、首都大学東京の学生が東京都電の古い写真をGoogle Earth上に落として街の今昔を示したアプリ「とでんちゃん」を開発しており、それを横浜でもやったら面白そうだと思って活動を始めた。

 当時、NPOに所属していた僕は興味がありそうな"大人"たちに声を掛け、その仲間がまた仲間を連れてくる形で伝播し、とでんちゃんにあやかり「しでんちゃん横浜プロジェクト」を始めた。

 横浜には1972年まで路面電車が走っていた。それが横浜市電である。僕が生まれる20年前には既に廃止されていて知る由もないのだが、幼い頃はよく磯子にある横浜市電保存館で遊んでいたし、市営地下鉄の沿線に住んでいた事もあって、どこか身近に感じる部分もあった。

 そもそも僕は鉄道が好きなので、この活動を始めた時に昔の貴重な写真が埋もれていて世に出ていない現実を目の当たりにして、寂しい思いと同時に、ここに光を当てていくべきだという使命感と、なんとなくそれが形になりそうな予感がした。

 気づけば人の入れ替わりもありながら毎月の会合には毎回20名弱が来てくれるようになった。メンバーは代表である僕が30代、40代が2名いる他は当時を知る6、70代がほとんどである。たまに顔を出して下さる94歳までいる。それも、単純に鉄道が好きなだけではなく、車両部品メーカー、プログラマー、専門図書館の司書など、各々の専門性が活動を支えて下さっている。

 当初は、写真をスキャンし、それをExcelに入力して、場所を特定し、座標を入れ、その他の情報を入れてデータベース化を行う地道な作業を行った。そのうちに、同じ場所へ実際に行ってみて今の写真を撮影に行くようになった。そして一部をウェブサイトで公開してきた。

 その後、横浜市電保存館にて弊会が主催して写真展を開催する試みを始めた。僕はNPOやその他活動でメディアへの売り込みなども経験があったので、自らプレスリリースを作成し、酷暑の中、横浜に支局を持つ新聞各社やテレビ局に投げ込みに行った。すると、読売新聞や東京新聞などが報じてくれたこともあり、写真展の来客も多く徐々にしでんの学校の存在も知名度が上がってきた。

1970年代の駿河橋を走る横浜市電
(阪東橋〜吉野町付近の鎌倉街道)
現在の同じ場所

 僕は当時を知るわけではないし、写真を持っているわけではないので、あくまで会のマネジメント役だと思っている。こんな趣味の会でも継続には案外アクシデントが発生するのだ。

 会合の場所を借りるにも年々厳しくなってきているし、定款の提出を求められたり、写真の貸借にも覚書が必要だし、写真提供者によっても各々思いが異なる。全て自由に使ってくれという方もいれば、生きているうちは許可を得てほしいという方もいる。一枚一枚の写真は「作品」であり、その信頼を失えば会は成り立たない。

 会の活動理念を明快かつ語呂の良い言葉「集める・学ぶ・伝える・残す」を考えたりもした。ウェブサイトも作った。メディア取材もあれば、写真使用の依頼もある。イベントの企画、諸々相談を受けたり、万が一の事故やアクシデントへの対応、会員同士の意見の食い違い(今はほぼ無いが、おじさん達は難しい。)など、一つずつ"人対人"の対処が必要である。でも、そんな事務方の活動も人間臭さがあって僕は結構好きだったりする。

 そんなことをやりながら、気づけば今夏で10周年を迎える。
 おかげさまで大体の困難や課題もほぼ対処出来るだけの様々なスキルも身に付いたし、それは全く関係のない活動や仕事で得た知見から乗り越えたものや、逆も然りもあるが、今、重大な課題に直面している。「高齢化」だ。

 10周年ということは皆が10歳年を取っているわけで、この事実から目を背けてはいられない。正直、前より反応が鈍くなっているメンバーも散見される。
 加えて、僕が突然死んだら会の継続性に影響するという脆弱性もある。

 写真を博物館や保存館などに提供すればそれも継承かもしれないが、あくまで公共や公の歴史としてではなく、一個人(市民)の記憶や記録を「集める、学ぶ、伝える、残す」活動に拘ってきた側面がある。これは僕個人の思いだけかもしれないが。
 ある意味での民衆の"生活史"として残していくことの難しさを感じている。この辺りは暫くは葛藤した思いを抱きながらも、何らかの結論を出していかなければならない時期に来ているのかもしれない。

 ご興味あればウェブサイトやTwitterも覗いてみて欲しい。

https://shiden-school.jimdosite.com

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