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CIRCUIT公演 ミニマリズムとその周辺 日本とアメリカ 曲目解説

2022年5月11日(水) 杉並公会堂小ホールにて開催する、CIRCUIT公演 「ミニマリズムとその周辺 日本とアメリカ」のプログラムノートを公開いたします。執筆は私、鈴木治行作品の解説のみ作曲者によります。

5月12日注 コンサートが終了しましたので、解説を演奏順に入れ替え、当日のステージ写真を掲載しました。

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「ミニマリスト」がライフスタイルを表わす言葉となって久しい。10年くらい前からだろうか。身の周りに置くものを厳選し、必要最低限のものだけを持ち、ガランとした部屋で暮らす人々。今、ミニマリストと検索して出てくるのはそうした話題ばかり。「旋法的な断片をひたすら繰り返す音楽の作曲家」との意味でミニマリストの語を使うのは、一部の音楽関係者だけだ。だが、音楽界では、未だミニマル=繰り返し。さらにいえば、オスティナート語法も、テクノミュージックにおけるループも、ギターのリフすらも、繰り返しの顕著な音楽が、とにかくミニマル的と評されたたりもする。

よくよく考えればこれはかなりおかしなことだ。そもそも、”Minimal”という語には「最小限の」という意味があるのみで、繰り返しを意味しない(ゆえに、世間のいうミニマリストの方が、語の意味に正しく沿っているわけだ)。これは美術におけるミニマリズムが、必ずしも繰り返し表現を採らないことからも良くわかる。音楽は時間芸術であり、一瞬で構成要素全てを把握することが可能な美術作品とは異なり、どれほど限定的な要素に拠ったとしても、その認知には一定の時間的持続が必要となる。限られた要素によって持続を作り出す方法は何か?繰り返しとは、そのための一つの解に過ぎない。

しかしながら、繰り返しが、音楽作品のミニマルな(=最小限の要素による)構成の唯一解なのかといえばそうではない。繰り返し語法の多用は陳腐化を招き、いわゆるポストミニマル音楽の多くは、「ミニマル」の厳しさとは程遠いものと成り果てた。「ミニマル」の精髄は繰り返しとは別のところにあったと考えてみてはどうだろう?素材や手法を厳しく限定しつつ、持続を担保するための、簡明で有為なコンセプトをいかに生み出すか。これを徹底的に思考することがミニマルの新たな道を拓くのではないか?本公演は、これに挑戦する「広義のミニマル音楽」を紹介することによって、その可能性を示すささやかな試みである。

CIRCUIT+後藤天・羽山進一


フィリップ・グラス(1938- ) Music in Contrary Motion(1969)

ジュリアード音楽院に学び、フルブライト奨学生としてパリに渡りナディア・ブーランジェに師事したグラスは、アカデミズムのエリートとして将来を嘱望された存在だった。だが、パリで聴いた現代作品には惹かれず、むしろ実験音楽がグラスの興味の中心となった。1966年には北インドへ渡り仏教へと傾倒。こうした経験が、アメリカ帰国後の独自の活動に結実する。≪Music in Contrary Motion 反対の動きの音楽≫は1969年に作曲。元来はオルガンのための作品で、グラス自らによる録音も存在する。右手と左手とが一声ずつを受け持ち、終始二声部が奏でられるが、それらはお互いの音程的鏡像(右手が下降すれば左手は上行、右手が上行すれば左手は下降といった具合)となっている。断片が規則的に増殖しながら反復していく構造には、私淑したラビ・シャンカール等インド音楽の影響も聴かれよう。同年作曲された≪同じ動きの音楽≫、≪五度の音楽≫とともに、真に「ミニマル」な繰り返しの音楽の一例である。

川村恵里佳(Pf)
川村恵里佳(Pf)
川村恵里佳(Pf)

テリー・ライリー(1935-) Taboo Danzas(2002)

ライリーの≪In C≫(1965)は、53個の断片的なフレーズを各奏者がそれぞれに任意の回数繰り返しながら演奏していく楽曲で、初期ミニマル音楽を代表する作品として知られる。特筆すべきことは、ライリーは他のミニマリストに比べて即興へと強く傾倒し、それゆえその作品にはグラスやライヒにはない不確定性が持ち込まれた。ライリーはいわば、クラシックよりもポップミュージックに親和するプレイヤー・スピリットの持ち主だったということだ。さて、1975年にグラスがミニマルの終焉を宣言したように、ライリーの近作もまた「ミニマル」とは別の位相へと移っている。ギターとバスクラリネットのための≪Taboo Danzas≫も例外ではなく、おそらく聴き手もこれをミニマルの音楽(繰り返し的にも、原義的にも)とは感じないだろう。本作においては、譜面は全て確定され、即興的な要素が介入する余地はないものの、フレージングとダイナミクスについては、奏者が自由に設定するよう指示があり、そこがいかにもライリー的な隙間を生む。

山田岳(Gt)
岩瀬龍太(B-Cl)
山田岳(Gt) 岩瀬龍太(B-Cl)

近藤譲(1947- ) スタンディング(1973)

繰り返しという観点からいえば、近藤譲をミニマルの作曲家とするのは奇異に思われるかも知れない。その作品において、明白な反復が行われることは希であるし、行われたとしてもそこには――あたかも夢の中の出来事を反芻するような――「曖昧さ」が纏わされている。それでも、近藤譲の、特に初期作品は紛うことなき「ミニマル」の作品といえる。近藤は1973年以来、「線の音楽」という、一本の旋律的な線を設定し、これを聴き手に辿らせる中で、その感覚を擽(くすぐ)る方法論に基づき作曲を行っている。≪スタンディング≫においても、素材は一つの旋律的線であるが、これを発音原理の異なる3つの楽器で、八分音符ごとに分担しながら演奏していく(これを「散奏」といい、近藤の初期作品に特によく観られる手法である)。曲が進むにつれ、複数の楽器がオーバーラップするなど、散奏の在り方が複雑化し、幻惑的な効果が生じるが、素材の線には特段の変化があるわけではない(単音の連接だった線が和音の連接になるくらいの違いはあるが)。大きく変化するのはあくまで散奏の在り方、その複雑さという絞り込みが、近藤をミニマルの作曲家として屹立させる。

川村恵里佳(Pf) 岩瀬龍太(Cl) 山田岳(Banjo)
近藤譲

トム・ジョンソン(1939- ) ナーラヤーナの牛(1989)

トム・ジョンソンの作品も繰り返しとは縁遠い、が、ジョンソンは自身を紛うことなきミニマリストと位置づけている。イェール大で学び、個人的にフェルドマンにも師事したジョンソンは、ヴィレッジ・ヴォイス誌で12年に亘って音楽批評を書いた経歴ももつ。ジョンソンの創作の特徴の一つに「数え上げ」があり、この≪ナーラヤーナの牛≫も、簡単な数理的な規則より得られる組み合わせを洩れなく数え上げていく、ただそれだけの作品である。どのような数理的規則によるかは、ナレーターが読み上げるテキストでつぶさに説明されているため、本稿では言及しない。「このテキストは、音楽的分析でもなければ数学の授業でもなく、また冗談でもありません。それは、音楽家にとってもそうでない人にとっても、ただ単に作品の一部です」(トム・ジョンソン)。数え上げが作り上げる持続はなかなかに複雑だが、これを生み出すコンセプトは単純明快であり、そこにジョンソンのミニマリストたるゆえんがある。

鈴木治行(ナレーション)
川村恵里佳(Pf) 山田岳(Banjo) 岩瀬龍太(Cl)
川村恵里佳(Pf) 山田岳(Banjo) 岩瀬龍太(Cl) 鈴木治行(ナレーション)

鈴木治行(1962-  ) 円周(2022) 
*世界初演 クラリネット、ギター、ピアノ  

今回の新作『円周』は自分で呼ぶところの「反復もの」ではあるが、更にいうと、演奏のたびに音楽の形の変わる不確定なゲーム的音楽の系譜にも属している。この不確定な傾向に名前はまだない。スコアは存在せず、奏者は無限に循環するパート譜によって演奏を進める。記憶を媒介にした関係性の生成が音楽的時間を作る、というのが「反復もの」の基本原理で、それは確定的、不確定的を問わない。僕の音楽のどの方向性においても、関心の優先順位は音よりも記憶にある。『円周』のコンセプトは昨年12月に初演された『独楽の回転』に最も近く、この2作は姉妹作といえる。この姉妹作の共通点は「追いかけっこ」だが、「鬼ごっこ」という方がよりふさわしいかもしれない。しかしこの点についてこれ以上深く説明しないのは、そこにばかり関心を集中されたくないからだ。ともあれ関係性のゲームに身を投じていただければ幸いである。  (鈴木治行)

川村恵里佳(Pf) 山田岳(Gt) 岩瀬龍太(Cl)
川村恵里佳(Pf) 山田岳(Gt) 岩瀬龍太(Cl)
川村恵里佳(Pf) 山田岳(Gt) 岩瀬龍太(Cl)  鈴木治行
岩瀬龍太(Cl)  山田岳(Gt) 川村恵里佳(Pf)

なお、アンコールとして稲森安太己≪Prelude≫(2022:初演→稲森安太己氏による自作解説へのリンク)が、岩瀬龍太(Cl)と川村恵里佳(Pf)により演奏された。

クラリネット:岩瀬龍太
ギター、バンジョー:山田岳
ピアノ:川村恵里佳
語り:鈴木治行

主催 CIRCUIT

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