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アフリカの太鼓(Djembe)との出会い

もう2年以上前の話だが、ジャンベフォラ(アフリカの太鼓の神様)と言われ世界中で活躍したママディ・ケイタ(ギニアからベルギーに亡命)という太鼓叩きが亡くなったことを鹿児島の知人から知らされた。鹿児島でニュースになったらしい。

【R.I.P.】世界的ジェンベ奏者、ママディ・ケイタ急逝

ママディは本当に素晴らしい太鼓叩きだった。
ママディとの最初の出会いは今は無き六本木のWAVE館地下の映画館『CINE VIVANT』のスクリーンを通してだった。

映画『ジャンベフォラ』

劇場公開日が1993年9月10日ジャンベフォラ 聖なる帰郷 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)。キャパは大きくない映画館だったが、徐々に映画の衝撃は広がっていった。僕はポスターを見て「この映画は見なければいけない映画だ」と思った。
鑑賞後ほどなくして前職で同僚だった美術館系の知人(彼も転職していた)から「『ジャンベフォラ』を見たか?」と電話が入った。お互いの感動を分かち合い、彼から「一緒に招ぼうか!」と誘われた。実際には彼が所属していた会社が中心となり、僕はサポートとして関わった。関連のCDは異例の販売数となった。ママディのグループは来日し、東京以西で8回コンサートを行い、かなりの反響を呼んだ。ジャンベが日本でもポピュラーになったのはママディのお蔭だと断言する。(ママディのこの初来日ツアーはNHKでも特番として放映された)
合宿みたいな感じでギニア、セネガル、トーゴ、ブラジル、ベルギー(全員ベルギー在住)のメンバーたちと寝食をともにして過ごした日々は忘れることができない。東京~鹿児島県三島村~奄美~岡山~広島~大阪~川崎。

1994年8月の日本公演のパンフ(表)
1994年8月の日本公演のパンフ(中面)

何故、ママディも亡くなってから随分経つのに書いてみようかと思ったのか。1994年夏の日本公演のパンフが突然出てきたからだ。ものを整理していると予期せぬものが出てくることはままあることだ。
もう30年近く前にママディたちと過ごした夏の暑い、熱い1か月。すべての会場が熱狂した。大多数の観客が初めて見るジャンベを中心とした西アフリカの太鼓のアンサンブルの美しさと迫力にとんでもないものを見てしまったという興奮と恍惚感に酔いしれた。

コンサートと両輪になったのが多くのみんなが初めてのジャンベと触れ合えるワークショップ。神様ママディから直接教われるのだから、ワークショップも大変な活況だった。ママディがその後も来日の度に訪れた鹿児島の三島村にはママディと地元の方々がつくったジャンベスクールが今も営々と続いているのはあの1994年夏のワークショップの感動と興奮を語り継ぐ人たちがいるからだろう。

自分は太鼓叩きでもなんでもないが、自宅の奥にしまってあった、何故かローマでセネガル人から買ったジャンベを出して庭で写真を撮ってみた。

偉大なアーティストも亡くなる。

あるとき、身近なミュージシャンのあまりにもはやい最期の知らせを受け取った。「マラリア」。無知な僕はアフリカ人がマラリアで亡くなるのか!と。悲しみのあと思ったのは、「彼は生き続けている。彼の音楽は生き続けている。」

ママディもそうだ。

アフリカの太鼓、ジャンベ、ママディ・ケイタは生き続けている。


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