なぜ走るのか。
毎日走り続けていると言うと「ストイックですね」とよく言われる。
どういう意味でそう言われているのかよく分からないのだが半ば呆れられて「よくやるね」という意味合いが大きいように思う。
なぜ私が「よくやるね」と呆れられるほどやるのかといえば、継続は力であり、やればやった分だけ成果として現れ、報われるということを自分の経験を通して知っているからだ。
さらには同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、それは自分の望むべき姿である。走ることは確実にそれを助けてくれるものと考えている。
確かに毎日走るのは億劫になるし、辛いことだし、面倒だと思うけれど、何にもない人生より、こうした辛い思いを何度も積み重ね、乗り越えた人の方が人生がより素晴らしいものになると私は確信をしている。
素晴らしい人生を手に入れるために努力をする。
シンプルなことだが、その象徴が走るという行為なのだ。
なかなか努力をしても報われることがなかったり、思い通りにならない現実の中でも、走るという行為は決して自分を裏切ることはない。
身体に現実的な負荷を与え、心臓や肺や筋肉が悲鳴を上げるたびに、直接的にフィジカルが向上しているのが体感できる。ランをするたびに自分の身体能力の目盛りが少しずつ高まるのを実感できるのだ。
複雑なメンタリティが求められる人間関係やビジネスとは違い、ランニングのようなフィジカルの世界は、理屈ではなく段階を一つ一つ積み上げることで結果が確実に現れるので実にシンプルで明快である。
頑張った分だけ結果が現れるのは人生そのものが報われたような気持になれる。
理屈でものごとを理解しようと努めがちな自分としては、こうしたシンプルな世界があることに驚きを感じたし、この理屈が必要のない世界にある種の心地よさを覚えている。
私は大学生の頃からモータースポーツのラリーをやっているが、ハンドルを握りアクセルを踏んでいると、本来のあるべき自分を手にしたようで、何とも言えない全能感に浸ることができる。
この感覚が忘れられなくてこの歳になってもラリーにしがみついてるようなところがある。
しかし、ふと考えてみると、この感覚は登山やランやトレランをしている感覚と一緒だということに最近になって気付いた。
山に登ることも、走ることも、アクセルを踏むことも自分のあるべき姿を手に入れるための手段だったのだ。
自分の知らない世界を手に入れるために文字通り、一歩一歩前に進んだり、未知の世界を切り拓くために自分の限界を超え、アクセルを全開で踏み続けることは、そうありたい自分自身の姿の象徴なのだ。
ラリーは車という道具を使ってそれを成し遂げようとするが、ランや登山は自分の体そのもので表現しなければならないため、よりダイレクトに実感することができる。
与えられた自分の能力の限界の中で、少しでも有効に、そして有意義な人生を送るために自分を高め熱く燃焼させていくこと。
素晴らしい人生を手に入れるために努力をするという象徴が山を登ることであり、走ることであり、アクセルを踏むことなのだ。
それらはフィジカルな世界なので、象徴ではなく具体性を持って自分の精神に織り込まれていく。つまりは腑に落ちるのであたかも自分の人生そのものであるかのように入り込むことができる。
これがラリーや登山やトレイルランニングや走るということの本質だし、それはまた生きることのメタファーでもあると思った。
なぜ走るのか?
今、自分の持つ、人生に対する一つの回答が「走ること」だからである。
(2018年09月22日)
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