人はなぜ、一生懸命さに心が打たれるのか
先日、小学校3年になる子どもの運動会の応援合戦を見ていたら、ふと涙が溢れている自分に気付いた。
所詮、子どもの応援合戦なので、取り立てて、技術的に優れていたというわけではないし、自分の子どもがいたからと、特に感情移入が容易だったというわけでもない。それほど、大したパフォーマンスがあるわけではなかったし、あるいは、応援合戦の歴史的観点から見て、革新的な演出や特別な工夫があったわけでもない。そんな、ごくありふれた小学生の応援合戦だった。
なのに、何故、涙が溢れてきたのか。
それは、きっと、彼らの「一生懸命さ」に心を打たれたからだと思う。
一生懸命さは、人の心を震わせる力があるのだ。
しかし、一生懸命さは手段であり、目的ではない。
人は目的を達成した時にこそ、充実感や、喜び、そして、感動があり、初めて人の心を動かす力を手にすることができるのだと思う。でも、なぜ、その結果も出ていない姿に(しかも、小学生の応援合戦なんかに)心を震わせてしまったのだろうか。
心が震える状態とは、感動であり、喜びや祈りにも似た心情である。喜びや、祈りを言い換えれば、悟りにも似た幸福の境地だと思う。
恐らく、幸福の境地と一生懸命さには何かしらの相関関係があって、私達は、知らず知らずのうちに、「一生懸命さ」と「幸福の境地」がつながっていることを知っているのではないだろうか。
だから、幸福の境地に辿り着こうとする、彼らのその姿は眩く映り、心が震えるのだ。
それでは一生懸命の先にある、幸福の境地とをつなぐものはなんだろうか?
私はこう考える。
一生懸命の先には待っているのは「自己の成長」なのだ。私達は、自己の成長が、自身の幸福の境地へ辿り着くのだということを経験則として知っているのではないだろうか。
人生とは自己成長の旅である。
それが世間に通用するかどうかはさておき、その人のステージで一生懸命に、頑張って、頑張って、課題を乗り越えることで、次のステージにステップアップすることができる。
上手い下手ではないのだ。
もちろん、成果を残す、残さないでもない。
その人に応じた課題を、その人が一生懸命乗り越えようと頑張っている先に、それぞれの人生の幸福の境地があり、それは相対的な尺度ではなく、絶対的な尺度としての価値がある。
相対的な尺度で認められなければならない、この世だからこそ、その人自身が、その人の絶対的尺度で一生懸命に頑張っている姿に、有無を言わせぬ人の尊さを感じるのだ。
私達は、それを見て、かつての自分を投影し、心を震わせているのだと思う。
年を取ると涙もろくなるというが、それは本当のことだと思う。
30代なら、30代。40代なら40代。あるいは60代になっても、70代になっても、仕事や、職責に応じた対人関係で悩み、あるいは夫婦関係にも悩んでいるのだろう。
つまり、いくつになっても、取り組む課題は山積みなのだ。そして、それを乗り越えるには一生懸命に考えて、考えて、行動に移すしか方法がない。
そして、年を重ねれば、重ねるほどに、その経験は増し、他者に対する共感力も増して行く。
だから、年寄りは涙もろくなるのだ。
一生懸命さに心打たれるというのは、まっとうに年を重ねてきた証だと思う。
(2013年5月28日)
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