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あのころ、下北沢で【Hobo】

Tと知り合ったのは四谷のライブハウスだった。友達の友達の友達がライブをするとかで誘われ、そのバンドのさらに友達の友達の友達くらいの立ち位置にいたのがTだ。190近い長身、ガリガリに細く長い足、何か話しかけても冷たく通り過ぎる視線、何より目立つ真っ黒で長い髪。真っ黒いロングコートをたなびかせて歩く姿はさながら漫画の悪役キャラのようで、私は瞬時に「氷の魔王」とあだ名をつけていた。

ライブ後の打ち上げでも魔王は魔王らしくいた。浴びるように酒を飲み、周りに女をはべらせながら女には冷たい。周囲がえっちな話題で若者らしく盛り上がっていても氷の微笑を浮かべるだけで、悠然と構えている。身分は間違いなく大学生なのに、固形の食べ物はほとんど食わない。だというのに友人たちも責めることもからかうこともせずスルーしている。なんだこれは。ラノベか漫画か。「勇者に破れたら現代社会へ転生しちゃったので正体隠して大学生活をエンジョイする魔王様」という連載でも始まるのか。

打ち上げの間ずっとクールで冷淡な姿勢を崩さなかった魔王は、しかしなんとか真正面にいた私のことは認識してくれたようだ。まったくはずまなかったがそれなりに会話はし、握手もハグもなかったが帰りにはそれなりの挨拶をした。打ち上げを解散したあと新宿駅で魔王が小田急線に乗るのを見たような気がしたが、宴会の後はひとりになりたい私は見なかったふりをした。

それからしばらくして、私はいつものように下北沢をうろうろしていた。こないだ近所の友達に聞いたあの米屋に行こう。当時、下北沢の南口をずっと降りて行ったとこに米屋があった。米は玄米の状態で置かれているので、銘柄と量を告げると店の人がその場で精米してくれる。しかも精米機に入る最低限の量(忘れてしまったが1キロか2キロかそんな少量)で買えるので、お金のない学生でもいい米をお試しすることができるのだ。最高だろう。

そうして米の銘柄といってもコシヒカリとササニシキくらいしか知らない若造が店頭であれこれ悩んでいると、誰かが声をかけてきた。

「じろまるさん?」

そこにいたのは知らない男だった。スキンヘッド。でかい。コーヒー袋をリメイクしたんですかと尋ねたくなるよなガサガサしたパンツを履き、悪い薬でもやってなければ描けないような名状し難い柄のTシャツを着て、ギラギラ光るでかいバッグを持っていた。知らない。こんな人知らない。

「こないだ小田急線に乗るとこを見たから。やっぱこの辺なんだ」

誰だ

「ここの米、美味しいよね」

本当に誰だ

ひとことも返事せず固まってる私を見てようやく気づいたのだろう。男は「あの、Tです。こないだライブの打ち上げで一緒だった」と自己紹介をした。T、それはまさかの魔王だった。

いやいやいやいや全然キャラ違う。服も態度も違う。無口でクールな魔王らしさはどこにもない。明るく陽気な青年だ。何よりその髪!あの真っ黒で嘘みたいに長い髪はどこへ行った。切っちゃったのか。違う。あ、そう。ウイッグでしたか。ライブの時だけかぶるんですか。嘘みたいな髪と思ったらほんとに嘘でしたか。

魔王スタイルは音楽やってる時のコスプレだという。それにしては完璧じゃなかったか。完璧なビジネス魔王じゃなかったか。素顔のTは中古レコードと古本が好きなサブカル下北ボーイで、米と魚と日本酒を愛する津軽っ子だそうだ。しかも米屋の常連でもあるらしい。彼はオロオロ迷ってる私におすすめの銘柄さえ教えてくれた。

しばらく米屋の前で立ち話をしていたが、結構いい時間だし話してたら喉も乾いた。なので、どちらからともなく飲もうかという流れになった。「この近くだと…」と魔王が選んだのは「HOBO」という店だ。今でいう王将の前を通り過ぎ、THE PIZZAの手前をちょっと入ったところ。ちゃんと話したのはほぼ初めてなのに、すごく話がはずんだことを覚えてる。私も中古レコードと古本を愛するサブカル下北ガールだったし、米と魚と日本酒を愛する房総っ子だったからだろう。同じ趣味嗜好を持つもの同志の会話ほど楽しいものはない。地元の刺身はうまいとか、ご飯は硬めが好きだとか、やたら気が合った。おまけにTはこんな話までしてくれたのだ。

「HOBOってのは風来坊とか放浪者とかいう意味なんだけど、英語と日本語の語感がなんとなく似ているの面白いよね」

私、そういう話、ダイスキ。
つまり、その日はとても楽しかったのだ。

あの頃、私は毎日のように下北沢をうろうろしていた。レコファンで新入荷を確認し、白百合書店で立ち読みし、駅前マーケットをひと回りした後、路地という路地をくまなくチェックしていた。駅に着いてから帰宅するまで3時間かかるなんて日常茶飯事。飲みに行ったらそれ以上だ。そんな話をするとTも驚いて「自分も毎日のようにシモキタうろうろしてる!レコファンも必ず行ってるし、白百合書店も、駅前のマーケットも!」というではないか。

じゃあ、今までも絶対すれ違ってたよね。
そうだよ、絶対どこかで会ってたよ。
これからも絶対バッタリ会うでしょ。
ね、絶対明日にも会うよ。

それきり、だった。


「絶対」なんてなかった。
「どうせいつでもすぐに会える」からと連絡先を交換しなかった。
本当に後悔している。


【ふつうの鶏そぼろ】


あの頃は米の銘柄などまったく知らなかったが、今ではそこそこ詳しいと自負している。よく買うのは「青天の霹靂」である。この米は硬めでさっぱりしているのが特徴で、おかずを邪魔しない・むしろ引き立てるところが気に入っている。

今のオットもご飯は硬めが好き。そして「できれば毎日食べたいので常備しておいてください」と言われてるのが、ごくふつうの鶏そぼろだ。材料は少ないし、作るのも簡単なので、本当に常備しがちである。

<材料>
・鶏ももひき肉 200g
・醤油 大さじ2
・みりん 大さじ2
・生姜 すりおろして大さじ1

鍋にひき肉と醤油、みりんを入れる。箸でサクサクと混ぜ合わせる。決して練ってはいけない。調味料となじんで汁気が見えないくらいになれば良い。先に調味料と混ぜておくと均一にポロポロになりやすい。

調味料となじんだら中火にかけ、箸で混ぜながら火を通す。焦げそうなら火を弱めるか、酒か水を少々足す。肉から出た汁気が透明になり、赤いところがなくなったら生姜を入れ、軽く汁気を飛ばして出来上がり。

うちは醤油とみりん同割のさっぱり目が好きなので、甘めが好きな人は砂糖を大さじ1〜2追加すること。同じくうちは生姜をバキバキに効かせるのが好きなので生姜が多めだが、入れなくても大丈夫。美味しい。


Tは青森出身で地元を愛していた。ごはんは硬めが好きだった。当時はまだ青天の霹靂は存在していなかったが、今の彼は好んで食べているんじゃないだろうか。それは「絶対」だと思う。

めちゃくちゃくだらないことに使いたいと思います。よろしくお願いします。