【逆噴射プラクティス】雪を染めるは黄金か錆か
息を殺せ。闘気を殺せ。己を殺せ。
時が来るまで、己はこの世にいないものと思え。
時が来たら、己の全てをただ一太刀に懸けて振り下ろせ。
正二郎は、マタギ示現流の極意を胸中で反芻する。
北の大地の冬は酷寒であり、容赦なく命を奪う。白と黒だけで構成された雪山は水墨画のように美しいが、生き物の存在を許さない死の世界だ。
正二郎はその中にただ一人いた。着込んだマタギ装束は特殊な化学繊維で編まれている。寒さで死ぬことはなく、その姿も雪や巨木に紛れ込む。手に持った大鉈の鈍色だけは隠せないが、己を殺せば、不思議と景色の一部となる。見付かる者は未熟にすぎない。そうして己の命を天に預ける。
枯れ木の下で待つこと数刻。深々と雪の降りしきる中、それは現れる。形は羆である。しかし、二足で歩き、知性を備え、黄金色に輝いている。
この不可解な生き物は「K‐UMA」と呼ばれ、わずか数年で北の大地の覇者となった。一説によれば、その誕生は登別の熊牧場という。遥か宙の彼方から来訪した異星人は、強靭な肉体を持つ哺乳類との同化によりこの星の新たな支配者となることを決め、羆に受肉した。しかし、異星人は、羆の強靭さを見誤っていた。K‐UMAに異星人の自我はなく、賢く怪しき異形の熊だけが残った。
K‐UMAは、優雅な足取りで雪中を進むが、正二郎には気付いていない。正二郎は、K‐UMAが間合いに入るまで、己を殺し切る。息を止め、血を止め、心臓を止める。
やがて時が止まる。
数瞬の後、正二郎は、ばね仕掛け人形の如くに飛び起き、両の手に握った大鉈をK‐UMAに振り下ろす。ただ全力で振り下ろす。鈍い音が山中に吸い込まれて消える。
正二郎は、今日も生き延びたのだ。辺りに広がる生温い錆色の血海は、正二郎の生を祝福していた。
正二郎が、K‐UMAを討つことを生業とするマタギ侍となったのは、十五の時である。
貧しさは人から自由を奪う。
【続かない】
逆噴射小説大賞2024の没ネタ供養でした。
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