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福祉作業所

地元の福祉作業所

そのブルーベリー園では6人程の障がい者が働いていた。朝、駅にその子達を迎えに行き、20km程離れた農場まで送り届けるのが、自分の第一の仕事であった。次に、彼らの農作業を管理指導するのが役目だった。そして、午後の作業終了後、彼らを又、駅へ送り届けるまでが、1日の仕事だった。職員はオーナーご夫婦と、自分ともう一人女性のパートの方とで計4名だった。時々、里山ボランティアの方が1名手伝っていた。作業内容はEM肥料製造管理、ブルーベリー栽培管理、7月、8月観光農園として営業、竹チップ製造販売等であった。自分が入った頃の障がい者は6名だったが、どんどん増えて20名になった。職員の方も7名に増えていった。耕作放棄地有効活用、農業と福祉の連携、農業の6次産業化で、福祉作業所は活発であった。1年通して平均に作業があることは大事なことである。なかなか上手な経営であったと思う。一方、作業する障がい者達の工賃は、全国的になのだが、とても低く気の毒に思った。それでもこの農園は福祉作業所の給与ランキングは、県でもトップクラスだった。昼食も無料、月に1度は美味しい食べ放題のお店に行ける等、なかなか工夫された作業所だった。そこで、初めて、障がい者の方達に触れあった自分は、『彼らはコミュニケーションが苦手、自己表現が苦手、自己主張が苦手、社会参加が難しいのだ』と、気がついた。そこで、オーナーに、音楽療法の導入、陶芸教室、絵手紙教室等の情操教育を提案し、少しずつ取り入れて頂きました。音楽療法の先生の年一回のコンサートでの全員参加のハンドベル演奏がとても感動的で、ご家族の方々も、目に涙を浮かべていました。

この福祉作業所へ入ってから、1年ほど経ったある日、地元の自治会長さんが訪れ、私を民生委員に推薦したいと、オーナーさんと私に相談に来られた。勤務に影響することなので、オーナーにも了解を取りつけにきたわけだった。

民生・児童委員

民生委員になると、厚生労働大臣からの辞令、県知事からの辞令、市長からの辞令がでる。当然、ある程度の身体検査(政治家程ではないが)があったのでしょう。ですから私の人生で、唯一自慢できるのは、民生委員に推薦された事だ。オーナーからなりたくてなれるものではないから、大変だけどお受けしたらと、薦められた。受け持ちは地元の300~400世帯の担当になる。簡単に言えば、地域の困り事、家庭の困り事の相談にのり、市役所や、社会福祉協議会にお繋ぎすることでしょうか。生活保護受給なども担当になります。地域の訪問を重ねる内に各家庭に一定数の引きこもり者がいる事に気がつきました。70ー40問題、80ー50問題、高齢化が進んでいたので、90ー60の家庭もあった。そこで、『社会参加はゆるやかボランティアから』をスローガン!に『ゆるボラの会』を立ち上げ、引きこもり者支援の活動を始めた。地元の自主防犯防災会に協力してもらい防犯パトロールを行った。

ミュージックセラピスト

民生委員になったのをきっかけに、福祉作業所で取り入れていた音楽療法を普及させてはと思い、地元の公民館のサークルに、音楽療法の会を立ち上げました。地元にも少なからず障がい者の方がいらっしゃるし、高齢者の方もいらっしゃるので、福祉作業所と同じ音楽療法の先生をお招きし、月に1回音楽療法セッションを行いました。

年一回の地域の音楽祭等にもハンドベル演奏で参加する様になりました。地域のデイサービスや老人ホームで、訪問演奏や、出張音楽療法等もするようになりました。3年目の活動の頃先生から、『あなたもセラピストの資格を取れば』と言われ、5年目位になんとかセラピストの一歩手前の資格を取得しました。

資格を取得してからは、木更津市、君津市、富津市、袖ヶ浦市の福祉施設にて、出張音楽療法セッションを行うようになりました。

この頃から、社会貢献活動が自分のライフワークになってきました。

ミュージックセラピストの次は公民館管理人、その次はヘルパー(介護職員初任者研修、資格取得)、その次はシェアーハウス管理人(障がい者、高齢者専用)となりました。

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