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挫折したお陰で

気が付けば58歳、過去に起こしてしまった大きな挫折はこの人生において大変大きな分岐点となっていた。 また年が経ちいろんな方々の本も読みながら、少し柔軟な考え方もでき始めた。失敗や挫折解釈次第で、特に長い時間で見ると決して失敗とは言いきれない。 もちろん私自身今まで人に誇れるような生き方は全く出来てないし、反省が圧倒的に多い。一部の方を裏切ったり、倒産で巻き込んでしまい、苦しめてしまったので、その罪は大きい。 それでも今は、本当に有難い幸運な人生だと感じている。 また、お陰様でこんな私にも役割をもらえていると思えて来たので、残りの人生は少しでも、1人だけにでも「喜ばれる存在」になれたらいいなぁと思っている。今までの罪=マイナスを埋め合わせう事などできないが、ほんの少しでもお役に立つことで、今回の人生を終えたいと思う。 イメージ的には倒産やその後作ってしまったマイナスが1000点だとすると、少しお役にたってプラス5点をこつことつくり、この人生でのマイナスをほんの少しでも減らしたいと考えています。

 順調すぎる学生時代、当時自分なりに挫折した経験を振り前ってみた、陸上競技に毎日必死にがんばってた高校時代、人生最初の挫折と感じたのは、高校3年のインターハイ、県大会では7位。6位までが近畿大会に進める男子800M決勝、それも5,6,7位が同タイムというギリギリの結果で陸上選手としての大学の推薦から落ちてしまった。でもこれが最初の幸運につながる。そのまま陸上で進学してもそれほど陸上競技への情熱も無かったし、何となく大学生活を過ごしていたと思う。大学で陸上をしないと決めてから、かねてからもっとも興味のあったラグビーを大学でもしてみようかと考えた。 花園の高校ラグビー全国大会を見て、興味や憧れから目標に変わった。それで大学は同志社に変更、運よく大学に入れた。 何のつてもないが、地元の外科の息子さんが同志社でラグビーをしているのを知り、その病院を訪ねたら、優しいお母さんが息子さんに連絡して、練習に連れて行ってもらえる事になり、その日に入部を申込、受け入れてもらえた。これも本当に幸運で、このタイミングを逃すと、大学でラグビーをする事はなかったと思う。そして何よりラグビー部としての大学生活は本当に面白かった。

 2度目の挫折に感じたのは大学3回生の時にラグビー部のマネージャーに選ばれた事。 当時レギュラーの可能性が無い方がマネージャーになるのがセオリーだった。大学からラグビーを始め、少しづつ自分なりにも成長でき、もしかしたら、もう少し上に選ばれるかもしれない、、と感じて大学3回生の時にマネージャーの打診を受けた。 それは「レギュラー争いに加わる可能性はない」と断定されたことでもあった。 選手を続ける事を条件に引き受けたが、今振り返ると当時の私がレギュラーとして出れる事はなかったので、マネージャーを引き受けた事が、お陰様でその後の人生に大きくプラスになった。 当時のラグビー部には135名。4回生になった時にはマネージャーの代表として主務も任された。 主務の経験はなかなか貴重な体験ばかり。例えば、合宿の手配でホテルとの交渉、試合のスケジュール調整、怪我人が出た時の対応、高校生のセレクションの選考~通知の連絡、新人の受入れ、取材の対応に、コーチ、OBへの報告に相談、等々。何より、個性豊かで「自由」をモットーにしてたメンバーをサポートしてきたことは貴重で、もちろんその後の人生に大きく役立った。

そのような有難いご縁のお陰で、最初は大手食品メーカーに就職できた。この就職も主務をやってた事は大きいし、たまたま同じポジションの後輩のお父様がその会社の役員で、夏合宿中に、夕食を一緒に食べてチームの話をしてたら面接は合格になっていた。 取材の窓口をしてたので、チームの事を話す事は慣れてて、OBと食事をする機会も多く、マナーや接遇もある程度鍛えられていた。 学生時代の2つの挫折と表現してるけど実際には少し小石に躓いた程度で 挫折などではなかった。

その後、運よく入れた会社も脱サラし、友人と一緒に起業し、次に自身で経営を行った。経営するタイプでも無さそうだが、ある程度幸運にも恵まれ、10年以上続ける事ができた。その間それこそ、「登坂」も「くだり坂」も「ま坂」もあった。 振返ると、順調に行った時は、少しづつ傲りもでて、傲慢になっていた。 何度か危機もあったけど、その都度周りの方に助けられてきた。 でも圧倒的に感謝する力が足りなかった。次第に経営は悪化し12年目に倒産してしまった。 もちろん自業自得、全面的に自分自身に責任があったけど、不可抗力な事やどうしても言い訳したくなる事もあり、なかなか現実を受けれ入れられなかった。 

 倒産してどん底状態の時に、以前一緒に起業した友人が声をかけて助けてくれた。その会社で働き、生活も、心も回復させてもらった。反省もして、素直に取り組み大事な役割も任せてもらえた。その会社は人材ビジネス以外に社会課題に真剣に向き合い取り組むNPOの運営も行っていた。その実践は素晴らしく、今でも代表者はじめその会社の皆さんは尊敬している。 そんないい会社も居づらくなってきたが、その理由を一言で言えば「私のエゴが強いから」となるけど、もう少し掘り下げると、いろんな過ちを犯してしまった私と、その会社の人達では 取り組むべき課題が違うとも感じてた。社員全員が本音で対話し、社会課題に取り組む社風はいい反面、当時の私は窮屈にも感じていた。結局その会社には7年ほどお世話になって退職した。 

その後、再度就職活動。40代後半で特にたいしたキャリアの無い私を欲しがる会社はなかった。 100社以上履歴書を送ったが、面接してくれる会社は1割もない、、また実際に働けそうなところは2~3社程度しかなかった。その頃は、「社会に必要とされてない。。このまま終わるのか。。」と本気で感じていた。 その頃も大学時代からの友人である平尾は定期的に食事に誘ってくれた。親身になりすぎず、明るく食事をしてとにかく面白い話をしてくれた。 そして「ピンチはチャンスやで」と笑って声をかけてくれた。 そんな励ましで何とか気持ちを持ち直し、就職活動もなりふり構わず行って、ハローワークの相談窓口に出向く事もした。 その窓口の女性は「以前は面接をしてた立場。採用担当がどんなところを見るか?分かってるのでは」とアドバイスしてくれた。と同時に、「一時的に合わせて振舞って偶然に合わない会社に入ってしまってもきっと長くは務まらない」とも感じ、早く内定をもらう事より、自分に少しでも合った会社を探すようになり求人情報を丁寧に見て、行きたいと思った会社だけに履歴書と職務経歴書を想いを込め、特に志望動機を丁寧に書いた。 流れを変えて数日後今の会社=ポラリスの「日本一のデイサービスを作る仲間を募集」の求人票に目が留まり、また興味をそそられたのは「過去の失敗体験とその体験を、その後の人生にどう活かしたか?」との質問があった。 これは私にとって大変有難い事で、倒産も隠す事なく面接では正直になんでも話せた。 お陰様で、ポラリスに選んでもらった 大学日本一の実績のお陰でもあり、本当に幸運だった。もちろん自分がやりたいと思える会社である事が嬉しかった。

「人間万事塞翁が馬」。 この言葉も平尾によく説いてもらって。知っていたけど、平尾からは、本来は 「ニンゲン万事、、」でなはく「ジンカン万事、、」と読むらしい、意味としては、「人間というものは、、」ではなく「人の世と言うのは、、」的なニュアンスだと教えてもらった記憶がある。この言葉の意味をまだ理解しきれてないかもしれないが、私なりの解釈は深まった。 何がどう転ぶかわからない、動かないと始まらない、失敗しても、反省して動いたら次は上手くいくかもしれない、、。一見いいように見える事は実は悪い事の落とし穴だったり、一見悪い事が、それをしっかりと越えると、いい事につながる、、。 一見不幸に思う結果が、実は後々幸運の道へと繋がっている。

ここまでアホな人生だったけど、決して不幸とは感じてない。本当につらくて苦しいときや、どうしようもない落ち込み方をする事もあったけど、今こうして生きている事には感謝している。 挫折したお陰で、いろんな教えも本気で取組、効果も実感する事ができた。 今まで関わってくれた皆さんや導いてくれた神様に心から感謝してます。「ありがとうございます」

最近小林正観さんの言葉に共感できるところが少し深まったかもしれない。「人生には幸も不幸もない。そう思う心があるだけ。」


#あの失敗があったお陰で

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