ゲーム

ゲーム依存対策条例なるものが話題みたいですね。

ゲームで人生棒に振りかけてる人はたくさんいるんだろうし、私もおそらくはその一人である。
しかし、それは果たしてゲームそのものが原因なんだろうか?

私の親は田舎の出で、歳もとっている方だった。ゲームを毛嫌いしていたし、少し違う話かもしれないが所謂クレヨンしんちゃんを見られない家庭だった。
私は私で幼い頃からずっと親に反抗していたので、その成果かゲームを全く出来ないという状況は免れた。
しかし枷として、一日30分という制限が課せられた。
目が悪くなる、だの、中学受験のため、だの理由は様々だった。糞食らえだ。
それだけなら、まだ良かったのかもしれない。
私の親は、もしかしたらゲームを渇望しながら満足に出来ない私を憐れんだのかもしれない。
私は、ポケットモンスターの攻略本だけを与えられた。
今思えば、これが運命の分かれ道だったかもしれない。
私は暇を見つけては攻略本をなぞり、画用紙にパーティを組み、脳内でゲームを楽しんだ。
同級生にやらせて貰った際の画面、特にステータス画面を頭に叩き込み、自宅で架空のゲームに耽った。楽しかったかどうかは覚えていない。ただ覚えているのは、その画用紙が親に見つかった時のことだ。
中学受験の最中だったので、怒られるだろうなと思った。すると何故か、笑顔と共に褒められた。幼心に、激烈な殺意を覚えた記憶が確かにある。あれは俺の行いを褒めたのではなく、自らの教育の正しさを誇っていた。親と子にしか分からない、確かな絆がそこにあったね。

受験も終え、初めて手にした携帯機とソフトはポケモンだった。
小遣いを電池代に全部ぶち込みながら、狂った様にプレイした。
案の定、親はゲームを咎めることをやめず、プレイ中に文句を言われ、虫の居所が悪ければ訳の分からない、ときには暴力を伴う説教が始まる毎日だった。
次第に私は、家にいる間はほぼ自室から出なくなった。するとドア越しに怒声と共に文句を言われる日々が始まった。そんな状況でも、実際にゲームを、プライベートな空間でプレイする喜びは格別だった。
ゲームを買う目的と分かるや否や、小遣いが無くなるかもしれない、という恐怖と戦う日々だった。バイトも校則で出来なかった。
日々の食事代を極限まで削って金を貯めた。
いつゲーム機を壊されるかもしれないという疑念も、同時にあった。外出の際は必ず携帯するか、隠すかした。
いかに匂わせず、隠遁し、欺くかの戦いだった。
その後私は、大学への内進にあたり、世界史DSというゲームのお陰で成功をおさめた。その話に、親は見向きもしなかった。
結局そんなもんなんだよな。糞食らえだよほんと。
大学進学後、私はモンハンとポケモンでいわゆる人生設計が半壊した。
皮肉でも何でもなく、望んだ通りの結果だ。
ここまで来てなお、ゲームは楽しい。
当然、難しさや厳しさもあるけれど。


ここまでは私の生い立ちの話。
この先の話が、全人類に当てはまる事はないだろう、という前置きの元で語らせてくれ。

先に述べた様な日々を送ると、ゲームをプレイする事を正当化すること、これのプロになれる。
つまりどういう事かというとな、やめるべき時にやめられなくなるんだよ。
だって、ゲームをする為に他の事をやらない理由が無限に生み出せるから。
分かるだろうか?
繰り返すがやってる本人は、楽しくてやってる。幼少の折に制限されたことは、いつまで経っても胸に残るんだよ。やり方にもよるんだろうが。


長いかな?ここまで来たら最後まで読んで欲しい。力作なんだよこれ。

以上を踏まえて、条例に対する私なりの問題提起。
何をどうしたらゲーム依存なのか、その基準が曖昧な状況で法令化するな。
親と子の間には少なくとも20年の世代の差がある。それはどちらが正しいとも言い切れないもので、片方を押し付けるべくもない。
ましてや、条例を作る連中とは更なる開きがある。これ以上世代間の対立を増してどうするんだ?

もう一つ。
私の場合は、だが、ゲームが出来ない事そのものよりも、それに付随する二次的な苦しみの方が大きかった。
周りでされるゲームの話が、本当に羨ましかった。友人の家でゲームをしても当然同じ土俵に立てるわけもなく、心から悔しかった。俺はこんなにゲームが好きなのに。
日進月歩で「ゲーム」が進んでいくのを何故か肌で感じていた。取り残されたくないから情報だけは掻き集めようと必死だった。
小学校当時、まだ携帯電話を持っている友人はほぼいなかった。我が家では、インターネットも満足に使えなかった。ローカルな環境下で、とにかく置いていかれない様に、ゲームの情報を貪った。
その情報こそが、当時の苦しみそのものだったのかもしれない。

今、そうだよ今。
自治体レベルで規制されていれば、ややもするとローカルな情報は出回らないかもしれない。
だがしかし規制対象はスマホであり、つまりはインターネットだ。
彼らは当時の私よりも遥かに容易く、楽しいゲーム(スマホ)の情報に触れることが出来るだろう。
これはね、キツいよ。これ以上の言語化が出来ない。
いっそインターネットごと規制したらいいんじゃないのか?
インターネットのない県!とか逆に目立っていいのでは?俺は絶対生きていけないけど。
スマホ依存を何とかしたいなら、インターネット規制するのが一番手っ取り早いよ。

私も、ゲームをスマホメインでプレイしていないので、今回の条例に対して正確な理解があるわけではない。異論は如何様にもぶつけて欲しい。
ただ、子供の望む事を一方的に規制して、大人の望む成長があると思うな。少なくとも私は狂い歪んで真っ直ぐになったよ。


色々な感情が綯交ぜで、話が思うように進まない。
確かにスマホ依存はあると思う。でも、少なくとも俺には、明確な基準がわからん。今この文章も、スマホで書いている。
人混みでは多くの人がスマホを見ている。身体を動かすことすら難しい満員電車で、無理やりスマホを取り出す人もいる。それこそ、歩行中や何らかの運転中にスマホをいじり、事故を起こす人もいる。
様々な問題が、スマホに紐付けられる。でも、結局はその人の資質の問題ではないのか?
迷惑行為を働く、事故を起こす、ギャンブル性の高いものにのめり込む、その他にも色々あろうが、結局その人自身の特性だろう?
スマホが無かった世の中にはもう戻らないんだから、スマホを問題視するよりも問題を起こした個人に対処した方が正確だろう?
結局、人間に甘く、事象に厳しいんだよ。
より曖昧なものに責任を求めるのは、もうやめればいいのに、と思ってやまない。
罪を憎んで人を憎まず、とは言うけれども、歩きスマホでぶつかられたら、憎むべきは歩きスマホじゃなくてぶつかって来た人でしょ。
最後の最後で漠然としてしまったけれど、こういう話だと思う。

条例の目的が分からないけれど、やるならちゃんとやらないと無意味どころか逆効果では?というお話。
スマホ、いやスマートフォンはもはやインフラだから、それをしっかり認識したうえで議論がされて欲しい。
起こる問題は利用者の資質に依るものであり、そのもの自体悪ではないという視座を忘れないで欲しい。心からそう思う。


※香川県の話を見てわりとすぐに書いた、自分の別ブログからの転載です。

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