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アイディアの「親」になることと、書く書かないの線引きについてのお話(第63話)

今日は、「文章として残す内容とそうでないもの」について書いていく。最近は普段から何を書こうかなと常に思考をめぐらせているので、以前のように全くネタが思い浮かばないということは少なくなった。

ただ、次に発生する問題として、思いついたアイディアを文章として残すかどうかということが挙げられる。思いついたはいいんだけど、果たして「他の人に見せられるレベルなのかどうか」ということを、ふと考えてしまう。

書籍や他人のブログを読んだ時に、自分の脳内で理解を進めて、いざ言語化してみたはいいけども、「これはその人が言っていることと対して変わらないな」とか、「ちょっと語尾を変えただけで視点や切り口は変化してないやん」ということが、2~3日に一回は起きてしまうのだ。

これは、楽して他人のコンテンツをインプットしているせいで起きるイベントであって、サボっているのと変わらない。こうやって生まれたアイディアは自分のものにはなっておらず、ふわっとしたものとして脳内を彷徨い続ける。

消化不良のアイディアは基本的にメモとして保留しておき、また違うものへ再定義できるタイミングがくるまであっためておく。そこで完全に消してしまうと、機会損失になってしまうからね。

一方で、日頃noteの題材として書いているものは、他人からインプットしたものだけど、自分というフィルターを通して召喚されたものを世に送り出している。

つまり、正式にアイディアの「生みの親」になれた時は、しっかりとした文章にまとめて読んでもらうようにしているのだ。他の人にはない視点や比喩、面白い組み合わせが思いついた時は、基本的に形にすることにしている。

これは人によったら完璧主義なんじゃないかと思われるかもしれない。確かに、思いついたことを何でもいいからアウトプットするのは簡単だし、楽だ。半年前の自分ならそれで満足していただろう。

でも、そこに甘んじてしまうと、脳への負荷が少なくなってどんどん惰性になることが僕にはわかっているのだ。基本的にルールに縛られず自由に生きているので、こういったところで少しくらいは制約を課しておかないと、単なるダメ人間になってしまうのが目に見えているんよね。

文章を書き始めた当初は言語化できそうなものがあったら、そこに容易に飛びついて、あたかも自分が1から生み出したかのような感覚で文章を書いていたが、今もそれをやってしまうと今後の成長に繋がらない。

これは筋トレでもゲームでも同じで、環境に慣れると楽だが、その分刺激が少ないから成長を止めてしまうことになる。

最近はありがたいことに読者も増えてきているので、今の時期は経験値がもらえやすいレベルアップ期間だと思っている。以前よりもフィードバックや感想をもらえるようになり、それが自分のエネルギーへ変換されて、鮮度の高い文章を構築できるようになったので、このチャンスを逃したくはない。

ある程度本数が増えて、安定期に入ったら多少は質が低いだろうと自分が思う記事でも出すと思う。まあ、まだ先の話かな。

半年前に撒いた種が、少しずつ成長して開花しようとしているところなので、ここで慢心して刈り取ってはいけない。とりあえず満開を一度迎えるまでは、高い水準で自分を追い込むのも悪くないと思っている。

今日は普段あまり書かないような内容だったが、たまにはこういうのもありかな。自分の思っていることを全面に出して、身の回りの人に知ってもらうことが大事だからね。

ということで今日は終わり。ではまた。

より「面白いもの」を探求する研究費に使わせていただきます。そしてまた、この場に得たものを還元できたらなと。