やさしく寄り添う医書のあり方 『あめいろぐ高齢者医療』・曲解から気づきへ

こんにちは。

いち編集部のリアルです。

前回のNOTE記事で、SHARPさん(@SHARP_JP)のコラムを引用し、やさしく寄り添う医書のあり方を考えてみます。商品開発者目線ではなく、ユーザー目線で。企画者サイド目線ではなく、読者目線で…と述べました。そして一晩考えてみました。

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「家電には、やさしい家電とやさしくない家電がある。私がうっすらと気づいたのはそれだった。やさしい家電とは、操作性がわかりやすいとか、お求め安い価格だとかいった実利的なことではない。使う人の疲弊した心に、やさしい存在かどうかだ。」
「ささやかな幸福や平穏を求めるだけなのに、なぜかだんだん自分が削られていく私たちの日常に、家電はどこまで寄り添えるか。その視点が、私の考えるやさしい家電である。」
「日々ツイッターを眺めるわれわれは、ほんとうは気づいているだろう。私もあなたも、しんどい。その本音のしんどさが、SNSにはあふれている。ただふつうに生きようとするだけなのに、心の余裕は簒奪され、生活は過酷に転がっていく。その原因に思い当たる節は垣間見えるものの、問題が大きすぎたり、時間の流れがはやすぎたり、あるいは勇気もなすすべもない。それがわれわれの暮らす現在なのだ。」

でも、このテーマは思いのほか難しく(新鮮で)、医学書の読者は、そもそも一般の方ではなく、医療者(医の専門家)がメーンです。「やさしく寄り添う医書のあり方」とした場合、通常ならば、健康や医療情報の啓もうのような目線が重視されると思うのですが、そもそも医の専門家らに寄り添う医書のあり方は、リテラシーや啓もうではありませんし、そういう段階をクリアしており、深く医を収めた人たちが読者なのです。あらら、いきなり思考の肩透かしをくらった感じです(挫折)。

そこで、もう一度再考し、ならば「やさしく寄り添う医書のあり方」を「医療者に寄り添うやさしい情報提供のあり方」という視点に置き換えてみてはどうか、とすこし思考の匙加減を変えてみたのです。すると、ふと「曲解」というワードが思い浮かびました。

曲解;[名](スル)物事や相手の言動などを素直に受け取らないで、ねじまげて解釈すること。また、その解釈。――大辞林 第三版より

曲解。皆さんも、自分はこう言ったはずなのに、相手には伝わっていなくて、別の反応をされてしまったとか、あんなに丁寧に説明したのに、相手には半知半解で、伝えたかった内容の5割も届いていなかったり――、そんな経験をしたことはありませんか。そして「どうしてあなたはいつもそのような解釈をするのだ」と面と向かって声にしなくても、心の中で相手を否定したり、あるいは一段下げた目線でその人を眺めることはありませんか。これって、よくよく考えてみると、「自分が正しい」という立脚点がまずあり、それに相手を同調させようとする理解のマウンティングなのかもしれません(自省を込めて)。

でも人間って、本当に余裕がないときのほうがほとんどだし、SHARPさんのコラムにも書いてありましたが、働いている人も育てている人も学んでいる人も引きこもりの人も、その人なりにみんな精一杯生きている限り、心に余裕がないときのうほうがほとんどですよね。余裕がない状況というのは、至るところに「曲解」が内在するシチュエーションでもあり、つまり「理解してほしい・理解する関係性」というのは、そもそも「曲解」をはらんでいるわけで、「なぜ理解してくれないのだ」と理詰めで責めても、何の解決にもならない。だとしたら、問題は「曲解」を前提にして、素直に受け取れないような環境を調整する。そこに人間の知恵があるのかも…と思ったわけです。

医学書の読者である医の専門家の「曲解」ということを考えてみますと、いろいろな医療者とこれまで仕事を一緒にしましたが、医療者といえども、一般の方と同じ人間です。その弊(へい)は免れません。でも彼らは専門家。ものすごい努力と研鑽の果てに医の知識と考え方と技を身につけ、優秀かつ堅牢な理解の集積回路をご自身の中に構築されており、同じ「曲解」でもその堅牢さがちょっと一般人の方とは違うような気がします。

ですが「曲解」するパターンが少ない反面、根本の「曲解」がスルーされていたりして(こんなことを言っては怒られてしまいますね)、もしかしたらそうしたことが患者さんとのすれ違いや、あるいは医のマウンティングみたいな姿勢につながることがあるのかもしれません。それはたぶん「痛み」や「悼み」といったより感情の昂ぶりが伴う医の現場では、致し方のないすれ違いだとは思うのですが。だって人と人とが命や健康をめぐって接しているのですから。

でも、ここが肝だな…と思うのは、医師・患者間の対話の不毛さ、相互理解の壁みたいなものが「やさしく寄り添う医療」系の話題として、永らく尽きないのは、その大本の一因として「曲解」があるのかも…と思うわけです。患者側のリテラシーの問題だけではなく、そもそもプロフェショナルがプロフェッションを提供する際に、そこになんらかのバイアスはないのか…と

ツィッターで、医の専門家が「素人は黙っておけ」みたいなコメントをされる方もおられますが、そもそも一般人は医療の素人だから医の専門家になってないわけで、素人のコメント(それがどんなに社会悪につながる無理解や事象であっても)に「黙っておけ」としてしまうと、自らのプロフェッショナルの否定につながってしまいます。もし目の前に蒙昧があるならば、それをプロフェションの立場からわかりやすくアプローチするのがプロフェッショナルなわけで、高級なイタリアンの店に行って、「まぐろはカルパッチョでなく、刺身醤油で喰いてえ」という客がいたら、「店から出ていけ」「これがうちの味だ」ではなく、「こんな食べ方もありますよ」あるいは「刺身醤油風のイタリアンの味付け」を提案するのがプロフェッショナルのあり方かもしれません(もちろん理想論です)。

常にアップデートの激しい医療の現場において、医の専門家が取得しなければならない情報は過剰すぎます。その飽和状態の知の海において、医療者の「曲解」を除外する(つまり気づきへのアプローチを短縮する)、これが「医療者に寄り添うやさしい情報提供のあり方」なのではないか、(ちょっと無理やり感が否めませんが)と自分なりに考えてみました。でもそうしたことのくり返しが、しいては患者さんに寄り添うプロフェッションのあり方にもつながるのではないか。これがやさしい円環ではないかと…。

ちょっと長くなってしまいましたので、『あめいろぐ高齢者医療』の紹介は次回より、そんな視点も加えて投げかけてみたいと思います。逆に『あめいろぐ女性医師』は、医療者に向けられるバイアスの視点から紹介します。

ご清聴(読)ありがとうございました。

2020.8.10

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