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【行列ゼロ!じんたろ法律事務所】京都安楽死事件から「死ぬ権利」を考える

 日本で「死ぬ権利」は認められているのでしょうか?
 スイスでは「死ぬ権利」が認められているらしい。
 自分はスイスでその権利を得たとしてこういうことをブログに書く人もいます。

日本で安楽死を合法化してほしいという難病の女性の試み

 「くらんけ」を名乗る20歳代後半の女性。
 6歳で神経性の難病だと診断され、14歳までにあらゆる治療法をやり尽くし、20代のほとんどを入院治療に費やしたとか。でも目立った効果はなく、主治医から完治の見込みがないことをはっきりと告げられました。
 趣味を探したけれど、体に不自由を抱えて没頭できそうなものは見つけられない。自分の病気は介護認定の対象外で、月8万円の障害年金だけでは、年を重ねていく両親に余計な経済的負担を押し付けてしまうかもしれない。
生きがいが全く見出せない生活なのに、他人の世話になる。罪悪感や申し訳なさが募ったとか。
 5年ほど前から死を考えはじめたけれど、首を吊ろうにも手指が動かないため、ひもをどこかに括り付けるのに誰かの手を借りなければならない。日本では自殺ほう助をした人が罪に問われてしまう。
 「穏やかに合法的に死にたい」――情報を探す中で見つけたのがスイスの団体でした。
 家族には2019年2月に安楽死したいと打ち明けたらしい。いまも強く反対されているとか。最近、改めて渡航の意志を伝えたが、話は平行線のまま終わったと。
 両親は安楽死という選択肢自体には反対していない。「もしも私たちが娘と同じような状態になり、体が不自由なために大きな生きがいを見いだせなくなったら、おそらく同様に死にたいと思う」からだという。でも「親として、一生懸命育ててきた大事な大事な娘だから、死んでほしくないのです」と訴えるそうです。ふつうの家族だと当たり前ですよね。
 でも、スイスでの安楽死が認められてから、くらんけさんは、心の中には、ある変化があったと言います。出口が見えたことが支えになり、病苦に振り回され続けた人生の主導権を、ようやく自分が握れたと思えたとか。
 「死なせることばかりにフォーカスしないで、患者にとって生きる糧にもなりえるんだということを知って欲しい」「考えてほしい。死ぬ権利が、一体誰のものであるのかということを」
 結局、両親はくらんけさんの渡航に渋々ながらも同意しました。でも、今度は新型コロナウイルスによる国境封鎖で飛べないというのが現状だとか。
 「そもそも日本で安楽死が認められていれば、患者がこのようなつらい思いをしなくて済むんです」とくらんけさんは国内で建設的な議論が進むよう訴えています。

 では、日本での「死ぬ権利」は今どうなっているのでしょうか?
 日本では、これまで裁判で、安楽死、尊厳死、自己決定権という違う視点から、裁判所が判断してきました。

憲法上の自己決定権としての治療拒否

 まず、憲法上の「自己決定権」(憲法13条)の問題として争われたのが、宗教上の理由で輸血を拒否し、医師はそれを認めるべきかどうかという問題です。
 「エホバの証人」信者輸血拒否事件(最高裁判決平成12年2月29日)として有名です。
 判決では、輸血拒否を宗教上の理由として認めるという判決でした。医師がそれ以外に生命を救う方法がないときちんと説明すべきだったのにせずに手術をして輸血をしたのは患者の自己決定権を奪ったのだと。
 これは「死ぬ権利」というより、「生かされない権利」を認めたものだと思います。

安楽死を問うた刑法上の嘱託殺人事件

 次に「安楽死」に関するものです。
 これにはふたつの有名な裁判があります。
 ひとつは、「名古屋安楽死事件(山内事件)」(名古屋高裁昭和37年12月22日判決)というのがあります。
 父親の苦しむ様子を見て、この苦痛から解放することが最後の孝行になると決意した青年が、自宅に配達された牛乳瓶の中に有機リン殺虫剤を混入し、事情を知らない母親がその牛乳を飲ませたため、父親は死亡し、青年は尊属殺人の罪に問われました。
 裁判で裁判所は、安楽死の6要件というのを出しました。

(1)不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
(2)病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
(3)もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
(4)病者が意思を表明できるほど意識が明瞭で、本人の真摯な嘱託または承諾のあること。
(5)医師の手によることを本則とし、そうでない場合には特別な事情があること。
(6)その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるもの。

 判決では(5)と(6)を満たさないとして、息子は懲役1年執行猶予3年となりました。

 もうひとつは、東海大学安楽死事件と呼ばれています。
 病院に入院していた末期がん症状の患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件です。日本で「安楽死」が争われた唯一の事件です(横浜地裁平成7年3月28日判決)。
 この時には4要件というのを裁判所は出しました。

(1)患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

 被告人の医師は有罪(懲役2年執行猶予2年)でした。
 ただし、患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから(1)、(4)を法律上許される治療中止にあたるという被告人の弁護人の主張を排斥し、法律上許容される治療中止にはあたらないと判断しました。

尊厳死を問うた医師による刑法上の殺人事件

 尊厳死が争われたのが、川崎協同病院事件と呼ばれているものです。
 神奈川県川崎市の病院で、医師が患者の気管内チューブを抜管後に筋弛緩剤を投与して死亡させたとして殺人罪に問われた事件です。
 患者が喘息発作を起こしていったん心肺停止状態になり、昏睡状態の患者の器官チューブを担当医師がチューブを外した後、患者がのけぞり苦しそうな呼吸を始めたため、准看護師に指示して筋弛緩剤を注射し、患者はまもなく死亡しました。
 地裁と高裁で事実認定が異なるなど問題の多い裁判でしたが、最高裁では医師は有罪となりました。
 最高裁は延命中止の判断について、このケースで認められない理由について、2つの点を述べました。

(1) 患者の回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。
(2) 被害者はこん睡状態にあり、チューブを外すのは回復を諦めた家族からの要請だったが、家族に被害者の病状等について適切な情報が伝えられたものではない

 今回の林優里さん安楽死の裁判では、大久保容疑者らの嘱託殺人をめぐって、これらの判例をもとに有罪か無罪が争われることになると思います。
 類似判例としては、東海大学病院事件ですが、今回の事件は病院外で起きているので、東海大学病院事件の判断基準がそのまま使われるとは思えません。仮に使われたとしたら、先に述べた次の基準です。

(1)患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

 今回のようなALS患者の場合、病状の進度が様々なために、(2)をどう判定するかが難しいでしょう。
 いずれにせよ、ALSのような難病では日本の裁判所がどう判断するのか?スイスで安楽死の権利を得るような女性が現れる時代、注目の裁判になると思います。

裁判より大事なこと

 以下は、Facebookで耕美堂と私が交わしたやりとりです。
○耕美堂:日本社会のありようを考えると、いったん死ぬ権利を認めると、死は自己責任、障害や難病者への死を無言で強要する地獄への道へ瞬く間に突き進む、と危惧。

○じんたろ:その危惧はわかるね。
それに「有用性」って視点が強まるとALS患者は生きづらくなるのが林さんの主治医の話でもわかる。
哲学的には「人類」としてどうすべきかを普遍的な価値の問題として考えないといけない。
誰しもALSのようになりたくて、生まれてきたわけじゃない。
そのとき同じ種の生物として、言葉で考える機能を与えられた同じ生物としてどうするのがいいのか。それが人類としての哲学的問題。
もうひとつの視点として、非哲学的には、そういう人が隣に、そばにいたら友人や家族としてどうしたいのか。
それを考えること。
もし、まわりのみんなが生きてほしいと思ったときに、本人はどう判断するのか。
やまゆり園事件でも思ったけど、「有用性」の罠って、本人もまわりもいつも試されているように思う

 スイスで死ぬ権利を得たくらんけさんにしたって、生きていくうえで経済的な心配がなく、本当に楽しめる趣味や毎日やることがあれば、死にたいなんて思わないと思う。

 国家がすべきことは、難病患者の経済的不安をなくすこと。そして、カウンセリングなどのこころの不安も軽減する措置でしょう。

 われわれ市民に大事なのは、ふだんから難病か難病じゃないかに関わらず、あらゆるひととお互い思いやる関係を築くことなんじゃないかと思う。

「有用性」って社会の基準が決めるものだけでいいのでしょうか?

 家族が、友人が、そのひとを愛している人たちにとって、そこに生きて存在してくれることが「有用」であり、本人もそれを「有用」と思えば、それを社会は「有用」だと認めるべきなのではないでしょうか。本人が生きる希望を持つことが一番大事なのですが。もし、そういう家族や友人がいなければ、それはそれで問題なのでしょう。やまゆり園の犯人にはそんな人はいないかもしれません。

 正真正銘の偽善者を目指している「てつがく者」の私でも、やまゆり園の犯人には「死ぬ権利」を与えたい。類としての人間の尊厳を踏みにじる、そういう社会に害を与える人には「死ぬ権利」を与えたい。

 でも、人間の尊厳を知り、生きたいと思う人たちには生きてほしい。誰か愛するひとができてほしい。つよくそう思います。

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