牛鬼に呑まれた男

高瀬 甚太
 
 友人の広中宗一郎から「泳ぎに行かないか」と連絡を受けたのが先週の金曜日だった。
 土曜日の夕方に大阪を出発して福井の海に行くのだと広中は電話で説明をした。
 その日は民宿に泊まって、夜は民宿から近い浜辺でキャンプファイヤーをするのだと、広中が楽しそうに語ったことをよく覚えている。
 学生時代の仲間が集まって、それぞれの家族と共に楽しく過ごそうと、広中は私を誘ったのだが、残念なことに私は仕事に追われてそれどころではなかった。滅多にない機会だから行きたいと思う気持ちが強く働いたが、仕事を優先しなければならないせっぱ詰まった事情があった。広中にそれを説明して電話を切った。
 訃報を聞いたのは翌週月曜日の昼前のことだ。広中の奥さんから電話がかかってきて、
 「広中が行方不明になりました」と伝えられた。
 「行方不明?」
 意味がわからなくて訊ねると、
 「はい……。海水浴場の飛び込み台から飛び込んで、そのまま、行方不明になりました」
 「飛び込み台? 広中は大学時代、水泳の選手だった男ですよ。飛び込み台から飛び込んで行方不明になるなんて、信じられませんが――」
 訝る私に、広中の奥さんは、その時の様子をこう説明してくれた。
 ――海水浴場の少し沖に飛び込み台がありました。広中は、子どもたちや当日集まった皆さんに、『飛び込みの見本を見せてあげますから、よーく見ていてください』、そう言って一人、飛び込み台のところまで泳いで行きました。台の上に立った広中は大きく手を振ると、勢いを付けて台から海面に向かって飛び降りました。美しいフォームで海に飛び込んだ広中でしたが、いくら待っても浮かんできません。何かあったのでは、そう思った仲間の方々が飛び込み台に向かって泳いで行きました。しかし、広中の姿はどこにも見あたりませんでした。心臓麻痺でも起こしたのでは、そう思い周辺を捜索しましたが見つからず、消防署に連絡をして、大がかりな捜索をしていただきました。しかし、どれだけ捜索を続けても広中は見つかりませんでした。
 広中は飛び込み台の上から飛び込んだ瞬間に消えてしまったのです。そう結論づけるしかない結果になってしまいました――
 
 「それはきっと海のおばけに呑み込まれたんだよ」
 友人の霊鑑定士、容貝層雲は私が広中の件で相談をすると、簡単にその一言で片付けた。
 容貝に言わせると、そういったことが稀にあるのだという。海には沢山の怪異があって、今までにもたくさんのそういった例が報告されていると容貝は話した。
 「西日本に伝わる妖怪で、牛鬼という妖怪がいるんだ。伝承では頭が牛で首から下が鬼の胴体、各地にいろいろな説が残されているが、海で起こる怪異のほとんどが牛鬼のしわざと言われているほど海のおばけの代名詞になっている妖怪だ。その広中という男も牛鬼に呑み込まれたのではないか」
 真か嘘か、容貝はそう言って笑った。容貝の言葉を待つまでもなく、海で行方不明になった例は数多くあり、その多くが謎に包まれている。牛鬼のしわざだと言われたら、そうかも知れないと思ってしまうような話も多い。
 広中も牛鬼に――。そう考えるとすべて片付くが、それにしても信じがたい話だ。そう思った私は、広中の周辺を調査してみることにした。
 広中宗一郎はネットを運営する会社を経営していた。業績は一見順調に見えるが、果たして実情はどうだったか。広中の会社の経理を任されているという会計士の伊沢辰郎という人物に連絡を取って会うことにした。
 会計士の伊沢は、待ち合わせの時間に10分ほど遅れてやって来た。一度か二度、伊沢に会ったことが過去にある。喫茶店の中に入ってきた彼を見てすぐにわかったので手を上げた。彼は私のことを覚えていなかったらしく、会うなり、「はじめまして、遅くなってすみません」と丁寧な挨拶をした。
 「先生には以前、広中の会社で二度ほどお会いしています。極楽出版の井森です。よろしくお願いします」
 「井森さん……? 失礼しました。最近、物忘れがひどくなって」
 どうやら伊沢の記憶の中に私は存在していなかったようだ。それも当然かもしれない。六十代後半とおぼしき伊沢は、白髪をなで上げるようにして私に聞いた。
 「ところで、ご用は何でしょうか?」
 「単刀直入にお聞きしたいのですが、広中さんの会社の経営状況はどうでした?」
 「経営状況ですか……」
「広中には順調と聞いていたのですが」
 伊沢には私の質問が意外だったようだ。首を傾げながら逆に私に聞いてきた。
 「井森さんは、どうしてそんなことを聞きたいのですか?」
 「広中が海で行方不明になったことはご存知でしょう? 海のおばけに呑み込まれたという話もありますが、それとは別に少し気になったことがあったものですから友人として調べています。どうか忌憚ないところをお聞かせください」
 「そうですか……。じゃあ、お話します。広中さんの会社は、経営自体は順調です。何の問題もありません」
 「そうですか。何の問題もありませんか」
 「ええ、ただ、一つ、別のことで問題があって広中さんはそのことで苦慮されていました」
 「問題?」
 「はい、実は広中さん、重大なトラブルに巻き込まれていましてね。それで悩んでおりました」
 トラブルを抱えていたと聞いて、ハッとした。
 「伊沢さん、もしよかったらそのトラブルというのをお聞かせ願えませんか?」
 「……広中さんはご存知のように発展家でしてね。今までにも愛人がいたんですが、今回の愛人は少し問題がありまして。二八歳で普通のOL、その女性には何の問題もなかったのですが、その女性に兄がいまして、この兄が商売に失敗して金に困っていて、妹と付き合っている広中さんに目を付けたんですね」
 「目を付けた?」
 「ええ、お金を脅し取ろうとしたんです。でも、広中さんは断固としてそれを拒否しました。するとその兄、名前は糸井伸吾というのですが、糸井は奥さんに妹との関係を伝えると言って――。でも、広中さんの奥さんは広中さんの浮気をそれほど気にしない人でしたから、広中さんは兄に、どうぞ、伝えてください、と言ったんですね。
 ところが困った問題が起きました。奥さんの父親にそのことが耳に入ったんです。奥さんの父親は広中さんの会社の出資者です。広中さんを呼び寄せて、愛人の話は本当なのか、と問いただしました。広中さんはもちろん否定しました。
 奥さんの父親は、もしその話が本当なら出資した金をすべて引き上げさせる、と広中さんを脅しました。
 仕方なく広中さんは、糸井の脅迫に従うことにしました。奥さんの父親に今回の浮気がばれれば間違いなく会社が潰れる、そう思ったからです。
 しかし、その時、すでに糸井は、広中さんの足元を見て、さらに金額を上乗せして広中さんを脅迫するようになりました。そのことで広中さんは、ずいぶん悩んでいました。お金を渡すのはいいだろう、だが、ああいう輩はこれで終わりにはしないはずだ。金がなくなればまた要求してくる。そうおっしゃっていました。何とかしなければ、何とか――、でもどうすることもできません。そんな時、あの糸井が交通事故で命を失いました。酔っぱらって街を歩いていた時、突然、背後から猛スピードで突っ込んできた車に跳ねられ、即死したのです。
 轢き逃げでした。警察の捜査で犯人の車は特定されましたが、その車は盗難車で、ほどなく川原に捨てられているのが発見されました。乗車していた人物は、手がかりになるものを一切残さず逃走しています。怨恨の疑いがあるとなって糸井に係わる関係者に警察の捜査が入りました。その中に広中さんも入っていました。
 糸井は問題のある人物でした。レストラン経営者ですが、放漫経営で各所に多大な迷惑をかけていました。そのため、糸井に憎悪を感じていたものは一人や二人では利きません。捜査して行く中で、糸井が債権者連中に、『もうすぐ金が入る。そうすれば利子を付けて払ってやる』と言っていたことがわかりました。その糸をたぐっていく中で、広中さんの存在がわかったようです」
 「彼は警察の事情聴取を受けたのですか?」
 「いや、広中さんにアリバイがあることが判明して、事情聴取は見送られたようです」
 「広中さんのアリバイは確証されたのですか?」
 「ええ、広中さんはその時間、異業種交流会に参加していました。証言者もたくさんいます。警察もそれを知って、一時は手を引いたのですが、再び、広中さんに疑惑が持ち上がって――」
 「そんな時ですね。彼が家族や仲間を連れて海水浴へ行ったのは……」
 私の中で、それまで抱いていた疑惑が、この時、再び持ち上がった。
 「そうです。こういう状況ですから辞めた方がいいとお伝えしたのですが」
 「それでも行くと言った。彼はきっと知っていたのですね。警察の疑惑が自分に向けられていることを」
 「そうだと思います。広中さんが、パーティーの途中、気分が悪いから少し休むと言って会場を離れたことを証言する人が現れたのです。同業者でしたから警察も俄に信じなかったようですが、数人の証言者が現れるに及んで、警察には、広中さんを確保して聴取に当たるというプランが出来ていたようです」
 「そうですか。よくわかりました」
 「井森さんは、広中さんが海水浴場で故意に行方不明になったと思っているんですか?」
 伊沢は、信じられないといった表情で私に聞いた。確信があるわけではなかった私は、首を振って伊沢に答えた。
 「わかりません。かなり広範囲に渡って消防隊が捜索していますからね。それでも見つけられないでいる。海に潜む妖怪、牛鬼に広中が呑まれたと言われても決して不思議なことではない状況です。ただ、私はどんな事情があろうとも、彼が無事でいることを願ってやみませんが――」
 
 数週間後、広中の会社は、経営者の広中が行方不明になったため閉じられることになった。幸い、負債は少なかったようで、広中の妻の父がその負債を清算して二十数年の歴史を持つ広中の会社は消滅した。
 その後、広中の家族は奥さんの実家である父親の元へ戻り、広中とは行方不明のまま離婚をしたと聞いた。
 やはり広中は牛鬼に呑まれたのか、そんなことを考えている時、広中が行方不明になった海浜の対岸に当たる岬で、釣り人が岩場の陰に隠されていた潜水用具一式を発見したというニュースを聞いた。近隣他国からやって来たスパイのものなのかどうか、警察は厳重に調査していると伝えていたが、その時、ふと、広中のことが脳裏を過ぎった。
 潜水用具を予め飛び込み台の周辺に隠しておけばどうだっただろうか。広中は水泳の選手で国体にも出たことのある男だ。潜水具があれば、かなり遠距離まで逃避できた可能性がある。捜索の手が及ばないところまで逃げおおせて……。
 そんなことを考えているうちに馬鹿馬鹿しくなった。やっぱり広中は牛鬼に呑まれたのだ。きっとそうに違いない。そしていつか、牛鬼から解放されて、私たちの前に姿を現すに違いない。秋の風を浴びながら、ふとそんなことを思った。
〈了〉

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